シャイーとゲヴァントハウス管・ブル8を聴いて

以下の記述は、かなり長くりましたから、ご注意ください。
また2日間数回に分けての記述になりましたので、つじつまや、話の繋がりに欠ける所がありますことを勘弁ください。

シャイーはインタビューで、伝統のゲヴァントハウス管が、ガチガチの保守的なオケではなく、新しい解釈や新しい演奏法にチャレンジし、リハで納得した暁には、ものすごい集中力で、エメルギーを放射し、素晴らしい音楽を生み出すことができるオケだ、というようなことを述べた。

しかし、このことは、裏をかえせば、ゲヴァントハウス管、納得できないことには従わないということにもなる。

伝統・保守と革新という図式は、どのような世界にもあるもので、世界最古のドイツ伝統のオケと称されるゲヴァントハウスと、斬新な解釈が特徴の、シャイーの間にどのようなやりとりがあったのか、そして彼らの音楽の愛好者として、そのポイントがなんであったのか、そしてゲヴァントハウス管の伝統とは、シャイーの革新とはなにかを知っておくことは、彼らの音楽の発展を見守っていくためにも必要なことと思う。

シャイーが、公演を前にして、いろいろな場所とタイミングで、伝統オケに対して、いかに自分流儀を納得させてきたか、ということを、オケの協調性や素直な点をことさら強調して語ることは、その背景にはかなりの苦労があったことを想像させる。

シャイーは、ゲヴァントハウス管のカペルマイスターとしての意気込みを、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルー録音に際し、以下のようにも語っている。

幅広いジャンルに取り組むのは、偉大なオーケストラの懐の深さを証明したいとの思いがあってのことです。
「サウンド・アイデンティティ」と彼らは言いますが、音の個性、自己証明をするような音の個性を持ちつつも柔軟性をもっていること。柔軟性というと、何か変わればいいと勘違いされる方が多いかもしれませんが、そうではなく、しっかりとした自己を持っているかどうかが重要なのです。
幅広い知識を持ち、奏でる技術をもっている、多種多彩な色をもちながらも自らの色、文化を維持し保っているのです。
 
オペラは息継ぎ、フレージングなど、風のごとく、その時々で状況が変わります。
オペラハウス出身のオーケストラに最高のオーケストラと言われるオーケストラが多いのは、そのような柔軟性ゆえではないかと思いますが、ゲヴァントハウス管弦楽団もまたしかりです。


「音の個性」「柔軟性」という、背反するような言葉がシャイーから出たのだが、ゲヴァントハウス(以後LGOとする)のオケの特徴は、「サウンド・アイデンティティ」と、団員自らが言うように、そのトーンつまり「音の個性」にあると言われて来たことは確かである。

小生は、何度もその見方が一方的過ぎると言ってきたが、一般的な風潮としては、「渋い、分厚い、どっしりした、かっちりした、燻銀」など、の言葉で表現されてきた。

そしてそうしたLGOの音の特徴は、主にマズア以前、ノイマン、さらに遡り、コンヴィチュニー時代のLGOのトーンについて言及したものが多かったようだ。

世間では、シャイーになってLGOのトーンガ変貌したいう意見があり、極端なのは、シャイーになってからのLGOはダメになった、というものまである。

シャイー自身も、(オケのトーンだけのことではないと思うが)、伝統と革新の融合調和などという意味のことを語っているが、果たしてそのことがそのような評価を産む原因なのだろうか。

では、LGOは、いったい何が変わり、何がよくなって何を失ったのか、そんなことを、自分の耳で確認するのも、今回のライブを見聞きする楽しみの1つだった。

そしてもちろん、ブル8という曲は、すべての楽器が活躍する楽曲だから、各オケパートの技量も見て取れそうだし、今まで聞いてきたブル8演奏と比べて、シャシーの解釈がどのよう(に斬新なのかも)確認したいこともある。

それで小生は「伝統・保守と革新」という切り口から、主としてLGOが260年前からそうしてきたと思われる、主には弦における「ノンビブラート」での演奏に重点着目することにした。

「ノンビブラート」というと、誤解を生むかもしれないが、ピリオドアプローチによるピリオド奏法を指すのではなく、あくまでもモダン楽器によるもの、そして必要なとき以外には、ほとんどビブラートを掛けない、あるいは、ごく薄くかけるものを指すのであって、全くビブラートを掛けない古楽器のピリオド奏法とは違うものであることを、言って置かなければならない。

LGOのトーンの印象だが、マズア時代や、マズアよりも古い時代のトーンと比べれば、かなり違ってきたという印象だ。(生のコンヴィチュニーは中学生時代、ほかは音盤でしか聴いてないが)
昔のLGOの弦の音は、野生の麻の織物のような感じに思われているが、実は海島綿のシャツのような手触りを持ち、混ざりっけの無いストレートで筋が通った(ピュアな音)音がするのであって、決して田舎臭くないしゴツゴツもしていない。

素朴で鄙びた田舎の雰囲気を持つトーンという評価は、よく聽かれるベト全、シューマン全などの録音のイメージがそうさせるもので、他の音源で、数は少ないがライブ音源を聴くと、LGOのトーン他についての言及が、表面的にしか過ぎないことがわかると思う。(来日時のベト9が良い例)

またオケの配置も、ベト全は特別の近代配置だが、普段は両翼配置で演奏したことは、来日時のベト9で明らかになった。

ベト全の近代配置は、録音上の都合ではないだろうか。

以前のLGOに比べると、シャイー/LGOのトーンは、かつてあったサウンドコンセプト(意識しているか否かは別として)がなくなってしまったように聞こえてしまう。

しかにながら、かつてあったものとは、先程も言ったように、素朴、燻銀、鄙びた等々の、いわば作られたイメージのトーンではない。

その変化を、言葉で言えば、輝き(艶ではない)が付加された明るめのトーン、つまり、綺羅びやかさが付けられたということになるし、逆に言えば、このような音を出すオケは、履いて捨てるほどあるということになるが、その意味で、かつて合ったものと、あえていっておく。。

シャイー&ゲヴァントハウス管、耳障りが良いが音楽の深みに欠ける、エリアフ・インバル/フランクフルト放送交響楽団のブルックナーのように聞こてしまったのは、小生だけだろうか。

LGOはダメになったのではなく、シャイーによって、サウンドアイデンティティが希薄になり、普通のオケになった、という言い方のほうが、的を得ているように思う。

LGO自体が、自分たちの伝統なるものを、常に意識して演奏などしてない、ということは、例えば日本の能や歌舞伎といった伝統芸能役者の例を出さなくてもわかることだ。

彼らの伝統とは、おそらく意識した何かではなく、先達や先輩諸氏から、連綿と引き継がれてきた全てを、体感しながら身につけてきたものだろう、そしてそれが団員が言うところの、「サウンドアイデンティティ」という言葉となるが、具体的なものを表すものではない、いわば観念なのであって、概念ではないのだ

LGOの伝統とは何を指すのかを、問うたところで、具体的な答えが得られるわけもなく、「サウンドアイデンティティ」ですら、抽象化された概念だから、「すべて」あるいは「そんなものの意識はない」などの答えが返るだろうし、「自分たちの演奏そのもの」と言うかも知れない。

だから、具体的に、何がLGOの伝統で、伝統の音なのか、さらに具体的に、なにがLGO伝統の奏法であるかを、彼らは意識しておらず、それがごく当たり前のことで、自然に身につけてきただけに、小手先でそれらを変えて、新しい何か違う方向に、急激に持っていけるはずもない。

「クラシックから20世紀までの幅広いレパートリーの音楽を演奏することは、私自身、偉大なオーケストラの懐の深さを証明したいとの思いがあってのことです。」とシャイーは語ったが、この発言には少々噛み付きたくなっていまう。

オケの懐の深さ=どんな音楽でも高いレベルで、演奏できる事、であるとするなら、それを証明するために、例えばノーノの音楽を演奏するなどというのは、本末転倒頭であろう。

シャイーはLGOのマイスター就任に際し、世界最古の伝統あるLGOという、そのことを、神経質に考えすぎてしまったのはないだろうか。

自分の個性を出すために、今までと異なるやり方の、何か目新しいものを、という欲求、そのために、自分の意思の結果、今までとは違うLGOの別の顔を見せたい、などという勇み足的な考えが支配していたのではないだろうか。

音が変わったことは、シャイーの意思と努力の産物の1つであると考えてよさそうだが、それは推理したことが少なからず当たっていて、ビブラートが殆どに置いて付けられ、強くなっている事に、大きな要因の1つがある、そう小生は見ている。

ビブラートを施す場面は、弦の動きが高速になる時以外は全てにおいてで、ほぼ全般にわたりビブラートが付けられていた。

要するにLGOが一般的なオケの、弦楽器の奏法を採用したという事になるのだが、これでは全く斬新さなど無いし、逆にLGOの個性が目立たなくなってしまった結果に、なっただけではないのだろうか。

そしてそのこと・・・長い楽団の歴史において、ノンビブラート運弓で慣れ親しんできて、ドイツの、いや世界のあまたあるオケの中にあって、今では独特のサウンドを持つに至った大きな要因の重要な1つ、ノンビブラートを、シャイーが継続採用することなく、ビブラートONで演奏させた意味は、トーンが少し明るく綺羅びやかになったこと意外、果たしてあったのだろうか。

しかも気を付けてみていると、このビブラートの強弱のニュアンスが、高弦と低弦で差があるのはまだしも、其々のパート内で、強めの人、弱い人が存在し、結果音の震え方がばらついたこと。
さらに驚いたのは、他の人がかけているのに、数人がビブラートに反応してなかった時があったことだ。

まさか、シャイーが意識してビブラートとノンビブラートを混在させた、なんていうことはないだろう。・・・・まぁそんなことは、ありえないことだ。

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第1コンマス(白髪で小太りだから、クリスティアン・フンケさんか)を筆頭に、第1第1Vnからビオラまでの中に数人、他の人比べ、ごくごく薄くしかビブラートを掛けない人がいた。

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トーンが変わったことの最大の要因は、多分ビブラートであるのだろうが、オケのメンバーの中には、ビブラートをほとんどかけっぱなしの奏法(シャイーの革新の1つと言ってよいだろう)に、疑問を持っている人がいるのか、他の人に比べごくごく薄くしかかけてないので、仕方なく弾いているように見えてしまった。

第1コンマスのクリスティアン・フンケさんは、ケヴァントハウス・バッハ・オーケストラの指揮者で、ゲヴァントハウスゆかりのバッハを得意としてきたから、シャイーのモダン改革に、諸手を上げて賛成しなかったとしても仕方あるまい。

LGO、260年の伝統奏法から、そんなに急には足を洗うことができてないようで、シャイーの思惑に納得できないメンバーの存在が見え隠れするようだ。

かつて、N響が、アーノンクールだったか他の指揮者だったか思い出せないのだが、ピリオド系の指揮者の要求なのだろう、ピリオド奏法で演奏したことがあったが、結果メロメロの音楽になってしまったことがあった。

長年ビブラートをつける指運弓でやってきたものが、急にノンビブラートで、しかも運弓もピリオドでという要求だから、弓の運びは揃うはずもなく、音楽そのものに多大な影響を与えてしまったのだ。

LGOは、N響きとは逆パターンだから、大して音楽には影響はなかったようだが、シャイーの目指すオケと、そのトーンに、柔軟に対応することができるには、まだ発展途上にあるようだ。

そしてその試みがシャイーの自己満足に終わらなければいいが、と小生は強く思うし、危惧の念をいだいてさえいる。

視覚と同時に聴覚を働かせ見聞きすることは、、聴覚だけで音楽を聴くよりも、音楽の情報量が減りやすいし、聞き逃しも出て来やすい。

それで聴覚だけで、つまり音だけを聞いてみることにした。

やはり弦のビブラートによる音揺れが、一見柔らかい響きを・・・(これを艶があるとか美しいとか言う人もいると思うが)しっているように聞こえる。

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しかしビブラートのつけ方に、ばらつきがあるせいか、フワフワした大きなうね感がつきまとう。

だからコンヴィチュニー時代のLGOが見せたブルックナーのような、一本筋が通った、歯切れのよい、鋭角的な、重低音に支えられた安定感あるサウンドから、遠いものとなってしまったようだ。

LGOが標準化されてしまいつつある、というのが小生の印象で、そのことでシャイーの目指すところが、バロック~現代音楽まで幅広いキャパをもつオケになること、そして伝統を持ちながら、新しいものに積極r的に眼をを向けられること、(ここまでは言ってはいないが、)発展させて、(伝統の音色・音楽も新しい音色・音楽にも柔軟に演奏でき、弾き分けできること)、ということを付け加える、とすれば、音色以外においては、すでにできていることなのではないか。

シャイーは、自分の解釈に従って演奏してもらうだけで良いのではないか。
そして演奏したい曲目を演奏すれば、よいのではないか。

自分の意思をオケに分かってもらい、要求とうりの演奏をしてもらうために必要なもの、それは信頼関係に他ならない。

LGOが、今まで経験がない奏法や解釈による演奏を、もし拒否するとすれば、それは楽団の古参や首席の地位にある人が、キーを握っているはずだ。

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であるのに、ブル8では、第1コンマスが、ビブラートの強調を拒否するが如くのボウイングを見せたが、まだシャイーと完全な信頼関係がないのだろうか。

ブルックナー8番は、音が豪快に前に出やすい音楽だから、オケの資質を見るには、あまり都合の良くない音楽で、金管が咆哮し、低弦が強力な運弓で大音量を造り出し、肝が座ったドシリとした音に圧倒され、演奏の良否を見失う恐れが多分にある曲だ。

特に管楽器のホルン群にミスがなく、そしてコーダがクレッシェンドしながらモルト・りタルダンドして金襴豪華に終われば、不満は少ないもので、一昔前の優秀な学生の吹奏楽の演奏に似た所がある。

中には管楽器だけが引き立つ演奏もあったりするが、ブルックナーは多分、弦楽器群と管楽器群其々が活躍する場所をキチンと設計し、お互いが主人公になったり脇役になったりを演出したように思うところがあり、そしてノヴァーク版8番1楽章を例外とし、コーダでは、Fがいくつあっても足りないほどのツッティとなることが多い。

さらに音のダイナミクスはもちろん、音の有無、特に無音を重要視し、突然の休止と無音状態を方方に入れ込んでいる。

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そのことを意識した上でなのか、シャイーは音楽開始と楽章間の時間を、他の指揮者の数倍も取って、聴衆もオケも、ホール全体が完全に落ち着くのを待って、祈るようにしてから音楽を開始した。

ブル8において、シャイーの解釈に、特別変わったところは見られず、ビブラート云々を除き、思っていたよりはるかにオーソドックスだったが、やはりこのオケとの演奏では、それが一番適しているように思うのと、その反面、シャイーは、本当にやりたいことが、まだできない状態にあることを十分推測させることになった。

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しかし思ったよりも、LGOのメンバーには、若い人が多く、さらにに意外だったのは、女性が多かったことと東洋人が多いことだ。女性は10人以上いるし東洋人は5人ほどいるように画面でみえた。

若い人ほどこだわりがあまりないし、切り替えも速いようだから、このことは、この先LGOが質実共に若返りをする、1つの有力な材料であるかも知れないし、シャイーの目的達成には、かなりの手助けになる可能性はある。

レヴァイン退任後のボストン響のシェフに就任するのでは、という噂がシャイー周辺を飛び交っているようだが、カペルマイスターになってまだ日の浅いシャイーに、そのような噂があるのも、シャイー&LGOの評価があまり芳しくないこと、そしてその向こうに、シャイー&LGOの確執のようなものを、敏感に嗅ぎとった結果でなければいいのだが。

オーケストラだって生き物であるから、変化してゆくのは当然のことだし、進化もする。
楽団員も変わるし、指揮者も変わるから、変化しないほうがおかしいと言える。

しかし、非常に見えにくくて分かりにくく、かつ抽象的だから、そのことを理解できる人は多くはないと思うが、自然に、当たり前のように引き継がれて来たもの、それはたしかにある。

人はそれを「伝統」と呼ぶが、オーケストラという音楽表現集団のそれは、何かの拍子に、それまでと変わった何かを感じることによって初めて分かることでもあるようだ。

小生はそれを、「ビブラート」という切り口で見ながら来たが、勿論単一のものだけで、モノを見る危険が有ることは、十分承知のつもりだ。

なぜなら、伝統の内容を規定するそれらは、お互いに有機的な繋がりを持っているからで、本来多くの他の切り口を合わせて、解明すべきものだからだ。

本日のブログは、そのほんの序章、いや目次にさえなってないが、かかった時間と少しの労力は、多分無駄ではないはずだ。

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ホルン軍団はかなロ上手で、難しいとされる、持ち替えのワーグナーホルンも立派な出来であった。

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第1ホルンと4楽章で大活躍のティンパニは、イケメン。

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by noanoa1970 | 2011-05-16 16:16 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)