主に103番「太鼓連打」について

以前から思っていたのだが、序奏の不思議な音型が、楽曲全体を支配しているかのように聴こえて仕方が無い。

小生はこの音型から、パガニーニ、ベルリオーズ、サン=サーンス、ラフマニノの楽曲にも潜む、あるものを想起していた。

そう、この重苦しくて不気味な音型は、グレゴリオ聖歌の「神の怒りの日」に、とても良く似た雰囲気を持ってはいないか。

このことは、小生愛聴の、パウルムガルトナー/モーツァルティウム管の演奏で気づいたのだが、それはドラムロールのあとに出る、低弦の序奏旋律が、非常にゆっくりしたテンポで、そして重々しく奏されるからであった。

ハイドンは、グレゴリオ聖歌から多くを引用したから、この103番にそれを引用したとしても、何ら不思議ではないが、誰もそのことについての言及がないから、小生の深読みのしすぎなのだろうか。

一昨日から聴いてきた、ドラティ盤ではどのように聴こえるのか、それも楽しみの1つに、本日で3回目目の試聴になった。

この曲の標題にもなっている、ドラムロールを、パウムガルトナーは、クレッシェンド~デクレッシェンドしていて、太鼓を叩きながら向こうからやってきた、例えば軍隊のようなものが、目の前から遠ざかっていく、というような動きを演出したが、ドラティはそのような解釈を差し込むことはなく、デクレッシェンドにとどまっている。

カラヤンなどの演奏でもわかるように、太鼓にほとんど変化を付けないから、このほうがスタンダードな演奏であろう。

「太鼓連打」という標題だが、果たしてこの楽曲に相応しいのか、ちょっと怪しいと小生は思うところがある。
標題の割には太鼓が活躍する所が少なく、ベートーヴェンの第9のほうがもっともっと活躍するぐらいだ。

ハイドンの標題付き楽曲、誰が付けたのかはわからない(知らない)が、その曲全体の印象ではなく、ちょっとした音楽上の有る瞬間を捉えて、付けられたものが多いように、小生は感じることがある。

この曲などは、「太鼓連打」というより「深い淵から見出した光明」とでも言いたいような気分の音楽だ。

ところがドラティの演奏を聞くと、標題通りで、1楽章内で太鼓が活躍する所が、他の演奏より多いようで、ドラムロール意外に何回も出てくる。

果たしてこれは、楽譜に記されている通りなのか、それともドラティの解釈なのか、楽譜を持たないのでわからないが、少なくとも、今まで聞いてきた他の演奏とは太鼓の登場回数が明らかに違う。

「太鼓連打」というタイトルを、ドラティが強調したためなのだろうか、などと考えたりするが、真意もわからないし、ドラティ特有のことではない可能性もあるから、このことは今後の課題にしておこう。

目的の1つ、序奏の重苦しい旋律だが、ドラティのスピード感ある演奏は、パウムガルトナーに比べて特別強調はしないから、サラリと流した演奏となっていて、「神の怒りの日」を印象づけるほどではない。

演奏によって、何かを想起するもの、できないものがあることは、経験があり、それはサン=サーンスの3番の交響曲。

ミュンシュ、アンセルメで長らく聞いていたが、ある時プレートル盤に接したとき、それまで想起しなかった「神の怒りの日」が潜んでいるような気がしたが、たぶんそれは、オルガン奏者で作曲家でもあるデュリフレ・・・あの有名なレクイエムの作者が、サン=サーンスに潜む「神の怒りの日」に気がついていて、そのことをプレートルと話していたからではないか、プレートルは意識して、そのことを強調したせいで、よく伝わったのではないか、という推測までしたことがあった。

そういう意味からは、パウルムガルトナー盤は、小生にはかけがえのないものだ。

ハイドンの交響曲は主として、弦楽器が主役で、饒舌、快活、洒落っ気、屈託のなさ、仄暗さ、明朗、快速、挑戦的、諧謔的、そんな気分を表すように思うが、そのために特に必要なことは、オケにおける弦楽器群のスキルの高さであろう。

そいてもちろん、そのスキルを最大限発揮させることができる、指揮者の腕前であることは言うまでもない。

ハイドンはしょっちゅういろいろな顔を見せる。
それは異なる作品はもちろん、同じ作品内に置いてもそうで、男を引っ張り回す、移り気の多い女性のようにで、聞き手を翻弄するような所がある。

おそらく、演奏する側は変化点が多く、しかも瞬間に変わるハイドンの音楽の演奏には、表情、音色、アクセントなど音楽の流れが急激に変化することに十分対応しなければならない。

さらに、昨今流行りの様相を呈している、ピリオドアプローチによる演奏スタイルでは、テンポが一段と速いから、演奏スキルガより重要になってくる。

変化するスピードに素早く順応するために、そしてそのことで、肝心の音楽に悪影響しないようにする必要が、ノンビブラート奏法を生み出したのではないか、というより、そもそもビブラートそのものが、ロマン派時代の産物であるから、昔帰りしただけなのだが、このことについては、楽器の形状とも関係がありそうだから、詳しくはもう少し検証が必要であろう。

ドラティのハイドン演奏スタイルは、モダン楽器を使ってはいるが、非モダンアプローチ(小生の造語、ピリオドアプローチに対して)、完全なピリオドアプローチではないが、それに近いと思われる演奏スタイルで、ハイドンを演奏しているようだ。

確認はできないが、いつも耳にしているバイオリンとは、ビブラート云々意外に違っている、・・・おそらくボウイングが違うように聴こえる。

フィルハ^モニア・フンガリカというオケは、今はもう亡き幻しのオケ。
データに乏しいが、バンベルク響がそうであったように、このオケは、ハンガリー動乱でドイツに逃れた、ハンガリー人演奏家によって、1957年に創立され、ベルリンの壁崩壊後に解散したと、ウイキには書いてあった。

この時海外に亡命した音楽家は、バルトーク、オーマンディ、セル、シフラ、ケルテス、ショルティ他枚挙にいとまがないほど。

チェコ、ポーランドといい、そしてハンガリーを含む、東欧諸国におけるプロの音楽家の層が、非常に厚かった事を物語るものだ。

フィルハーモニア・フンガリカは、もともと弦楽器の名手が多かったのか、それとも創設以来の指揮者ドラティに訓練されたのか、それともオケを短期間で育て上げる天才指揮者、ペーター・マークによって徹底的に訓練され腕を上げたのか、とにかく弦楽器群の腕がすこぶる良く、ドイツの伝統オケと比べても、そんなに遜色はない。

様々に変化する表情を、巧みな弦楽器が創りだすことは、ハイドン演奏の必需品と言えるのではないだろうか。

フィルハーモニア・フンガリカ、組織的な伝統はないが、そして急ごしらえのオケにもかかわらず、彼らが作る音楽は、かなり高水準で、特に弦楽器群の満足度は高い。

ドイツ国内における、ハンガリー人の意気込みを、ドイツの象徴的音楽家、ハイドンを演奏録音することでドイツ人や世界の人々にアピ^ルいようとしたのがこの演奏録音であるような気がするし、しかも世界初の全曲盤だから、彼らのハンガリー人魂を見るような気がしてならない。

2楽章は、葬送行進曲にも似た開始だが、転調して高域の楽器群に引き継がれ、だんだん明るさを見出し、バイオリンソロが、喜びを表現するかのようだ。

短調に戻った開始の葬送行進曲は、今度はアクセントをつけ、勇ましい行進曲と鳴る。
このメロディ、ドイツの学生の歌あるいは民謡風に聞こえるがどうであろう。
2楽章には、後にベートーヴェンが引用しそうなところがあるような感じがする。

3楽章にも、ベートーヴェンの「田園」2楽章に出てくる、弦と管楽器が奏す、鳥の鳴き声のようなポポポポポポポーが繰り返しでてくるが、関連はあるだろうか。

4楽章になると、その予想が当たっているかのような、それらしきものがさらに出てくる。
何度も出てくる親しみやすいメロディ、それは「田園」の冒頭のあのメロディをモディファイしたもののように、小生の耳には聴こえるのだ。

いや、ベートーヴェンが、ハイドンの音型をモディファイしたというべきだろう。

103番は、ベートーヴェンが参考にしたと思われる形跡を、たくさん含んでいるように、少性には聞こえたが、十分な検証はできないのが残念だ。

ベートーヴェンとハイドンを、、強く結びつけるような103番の聞こえ方は、ドラティ盤であったが、このこともドラティの演奏の、特徴を表す1つなのかも知れない。

パウムガルトナーが、優雅でお洒落なハイドンというなら、ドラティは、酸いも甘いも噛み分けた、スマート(本来の意味で)なハイドント言って良いと思う。

あえて好みを言うなら、小生はパウルムガルトナー盤になる。
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by noanoa1970 | 2011-05-14 15:14 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)