音楽、聞き方接し方のちょっとした変遷

ここ10年、いや20年ほど前から、小生音楽の聞き方に、新しい要素が加わった。

それまでは、音楽の3要素、主にメロディを中心に、それを追いかけて、記憶可能にすることが、音楽を聴くことであり、それに加えて、自分のオーディオ装置で満足できる音を出すため、つまりオーディオ的に聴くことが中心のようであったと思う。

それからしばらくして、例えばソナタ形式の曲を聴く際に置いて、なるべくなら、出来ることなら作者と同じレベルになり、作曲の意図を知りたいいという欲求が強くなり、、楽曲の構成に着目しようとした時期が来ることとなった。

平行して、いわゆる聴き比べが加わったが、それは好きな曲の好きな演奏を探すためであり、他にもっと自分に合ったそして満足できる演奏があるに違いない、という欲求かもたらしたもの。

そしてそのことは、音盤が安価になって入手しやすく、そして多くの種類の演奏が手軽に入手可能な現在、とてもすべてを聴くことができなくなって、多少消化不良気味だが、未だに続いていることである。

そして、このようなことを経験するうち、なぜ同じ楽譜で演奏される曲が、演奏家によってこうも違って聞こえることがあるのか、という疑問が湧いてきて、演奏家における楽曲の解釈が演奏に大きな影響をおよぼすこと、そして同じだと思っていた楽譜には、版の違いがあること、さらにオーケストラの配置や使用楽器についても、かなり違うことなどを学ぶことができた。

自分自身で気がついたことはいくつかあるが、、代表的な大物は、ベト9の4楽章のバリトンのソロで、テーネをF-Fと歌うものと、F-Gと歌うものがあるのを自分の耳で発見したことは、忘れられないことだ。

大げさに聞こえるやも知れないが、このたった1音の違いが、小生にとっては、楽想を決めかねないほど、重要な意味を持つ音に聞こえた。

それで当時発売されていたベト9を、可能なかぎり集めて、その部分を聞いて調べ、DB化したことがあった。
40例に過ぎなかったが、F-F、G-Fの比率は、ややF-Fが多かったと記憶する。

G-F派の小生は、F-Fは例外を除き相容れない時期が、相当年月に渡ることになり、好みの指揮者の演奏が、G-Fであると、しめたと思ったものだった。

いつのことだったか、だいぶ昔のことだから忘れてしまったが、近代フランス音楽に興味を持ち始めた頃。
ドビュッシーの「子供の領分」中の、「ゴリウォーグケークウォーク」の解説に、とても面白いことが書いてあったのを読んだことがある。

そこには、ドビュッシーがワーグナーを、この曲中のあるフレーズで、おちょくった・・・’パロディという言葉を使って書かれていて、なぜならドビュッシーは、ワーブナーの巨大化し、肥満気味の音楽を、よく思っていなかったからと、そのように説明されていたのであった。

楽曲の中に、特定の誰かを批判するようなものを入れ込むなど、思いもよらぬことで、その部分を確認しようと、何度も聞いた覚えがある。

この経験が、楽曲中に他の作品を引用したものを発見する楽しみとなり、そしてそのための耳の訓練もしつつ、新しい聴き方が加わる原点となったと今思っている。

今では有名な話だが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」中で、最もハイライトされる「愛の死」:(トリスタン和声)のメロディを、パロディとして堂々と入れ込んでしまったから、ドビュッシーという人間、一体どういう人なんだろうと、それからさらに興味が湧いた。

このことが「音楽上の対立」の存在を初めて知ったときで、それまで雲上人的に思っていた藝術家に、一般人と何ら変わることのない人間らしさがあることを見た気がするとともに、崇高で楽しく癒しにもなってくれるものと思い込んでいたクラシック音楽の世界だが、決してそのようなものだけではなさそうだ・・・文学作品と代わるところはない・・・ということを、その時初めて知ったのであった。

ブラームスを擁護しワーグナーを批判した、ハンスリックの著書を読むようになったのも、ドビュッシーとワーグナーの音楽的対立の一件が影響しているが、大学時代の音楽サークルで「研究」が求められたから、音楽社会学や音楽美学書をむさぼり読んだその一環でもあった。

そして、ドビュッシー以外にも、そのような例は数多く、パロディ、オマージュ、ちょっと借りただけ、完全なパクリまで、音楽史上には、いくつでも例があることを知り、音楽を聞いていてそれらを発見することが、楽しみの1つとなった。

ショスタコーヴィッチにも例があるが、その意味がなんなのか、未だによく分からない。

自分の耳だけを使っての発見は、音楽的耳の良さを、自ら確認する証のように思えたから、かなり長い間今日まで、その楽しみ方は続いている。

ベートーヴェンの「運命の動機」、グレゴリアンチャントの「神の怒りの日」の引用を筆頭に、自分で発見したものが幾つかあって、中にはいまだ誰も言及しないものもある。

小生自身が発見したあとになって、解説などに記述されたものもあり、代表的なものが、サン=サーンスのオルガン交響曲中に潜む「神の怒りの日」のフレーズで、当時ネット上で確認しようとして見たが、それらしき言及は全くなかった覚えがある。

R・シュトラウスのメタモルフォーゼンに潜む、ベト3「英雄」の葬送行進曲のフレーズを発見したとき、掲示板に書き込んだが、コアなファンが集まる掲示板でさえ、当時はそのことに気がついていた人はいなかった。

ブラームス交響曲2番の第1主題は、「ブラームスの子守唄」とほぼ同じ旋律でできている事について、なぜ誰も言及しないのか、シューベルトの未完成交響曲1楽章、第2主第と歌曲「魔王」の魔王のささやきが、リズムこそ違うが、同じフレーズということなどは、未だに誰の言及もない。

似ている曲探しをするため、というのではなく、引用が、パロディ、オマージュ、流行、模倣その他の理由なのかが知りたいところで、作者同士楽曲同士の何らかの繋がりの痕跡を確認したいから、というのが当たっている。

中には理由も全くないまま何気なく、引用したという例もあるとは思うが、殆どの場合、理由があるように思う。
これまでの音楽体験から得た知見に加え、引用の理由を理解しようとすることで、楽曲の理解が、さらに1歩進むのではなかろうか、そんな気がするのである。

オリジナリティの追求、それが芸術家たるものの使命、のように思っていた時代があったが、藝術といえども、原点は「模倣」である、ということを知るに至ったということも付け加えておく。

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by noanoa1970 | 2011-05-07 09:57 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(4)

Commented by ベイ at 2011-05-07 16:49 x
noanoa1970さん
エッセイを興味深く拝読しました。
ちょうど私もこの内容と同じようなテーマの本を読んで感銘を受け、自分の日記に感想文を書こうと思っていたところです。
その本とは、岡田暁生著「音楽の聴き方」(中公新書。本体780円)です。お読みでなければご一読をおすすめします。目からウロコ、あるいはわが意を得たりと、得るところが多い名著だと思います。
同書の惹句を引用しておきます。
『音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由だ。しかし、誰かからの影響や何らかの傾向なしに聴くこともまた不可能である。それならば、自分はどんな聴き方をしているのかについて自覚的になってみようというのが、本書の狙いである。聴き方の「型」を知り、自分の感じたことを言葉にしてみるだけで、どれほど世界が広がって見えることか。規則なき規則を考えるためにはどうすればよいかの道筋を示す。』
ちなみに、この本は第19回吉田秀和賞を受賞しています。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-07 17:15
ベイさんコメント感謝デス。
紹介いただいた本、小生は未読です、というより、ここ最近音楽に関する書籍は全く読んでいないのです。白内障が進んで、小さな文字が読みづらく、余程のものはスキャナーで読み込み、PCで拡大することになってしまいます。今月中旬に手術の予定で、視力が回復したら読んでみたいと思います。「規則なき規則を考える」とは、聞き方が変化していくということなのでしょうか?
Commented by ベイ at 2011-05-07 20:39 x
白内障は手術でよくなるそうなので、完治されたらぜひご一読ください。
「規則なき規則を考える」とは、わたしの理解によれば、これまで様々な音楽の聴き方や批評方法、鑑賞の仕方が個々に、恣意的に存在してきたが、それを客観的、理論的、歴史的に検証して自分の音楽鑑賞の型を自覚すること、音楽に対する自分の立ち位置を検証することを自覚的にすることで、より豊かな音楽の受容と、他者とのコミュニケーション(他者とは作曲家と当時の社会、現在に至る受容の歴史と現代の聴衆や社会を結ぶ)をもっと豊かに確かにしよう、ということだと思います。
具体的には芸術作品を受容するときの共通の型を知ることで、複数の人々の心を結び付け、豊かな会話を楽しむことだと思います。
著者の言葉を借りれば『これって私たちの中ではこんな風に位置づけるのが普通だよね。でもここはちょっと変わっているけれど、これもこんな風に考えればありかもしれないと私は思うよ。-とても平たく公式化するなら、私が考える音楽解釈の基本図式とはこのようなものだ。』ということだと理解しています。
Commented by noanoa1970 at 2011-05-07 22:36
ベイさん
>音楽解釈の基本図式
音楽を聞くための基本と言っている酒ではなさそうですね。図式化するということは、パターン化することではないでしょうか。そしてさらにそのパターンをいくつか・・・数が多いほど、どんな音楽にも対応ができるそんな意味かな。個人的趣味の要素が強い音楽を語り合うのは、昔から非常に難しくて、例えばアルゲリッチ愛好者とは、話が通じ合うといった減少も見られます。しかしただ好きだというだけでは、そこで会話が集結し、思考停止になるから、パターン≒引き出しを複数もつことは必要でしょうね。でもどんな聞き方があっても、否定はできませんが。
面白そうなので読んで見ます。DRAC時代が懐かしいです。
とにかく読んでから再度お話しましょう。