「ドイツ的」ということ

「~的」という言葉の使い方は、大変便利である。

とくに文化芸術、音楽において、よく使われ見られるのが、「ドイツ的~」という言葉だ。

「ドイツ的」という言葉は、中でも演奏行為を、そしてその結果の音楽を説明したり、評論するときに用いられることが多い。

事実ネットで、「ドイツ的演奏」で検索すると、その言葉を使って語られる多くの記事を発見することができる。

小生自身の経験では昔、音楽雑誌である複数の評論家が、演奏・音盤批評や解説をする際に使った記事を読んだたことが最初だったように思う。

しかし今その時の文章を読み返して見ると、その当時はなんとなくわかったような気になっていたのだったが、今考えてみると「ドイツ的」という言葉の意味合い、「ドイツ的」という概念が、具体的には何を指しているのか、よくわからないし、どうにでも取れるような曖昧な表現だから、そのニュアンスたるや、受け取る人によってまなり違うということが予見される。

したがって、その言葉「ドイツ的~」を使った文章の受け止め方、理解の仕方は、受け取る人によって相当にバラつき、文章作者が言いたかったことが、曖昧模糊としてしまう結果になりがちだ。

ならば、過去から現在まで、とくに芸術・音楽上でよく使われてきた、「ドイツ的」あるいは「ドイツ的演奏」の具体的意味とは何かを、改めて今、探ってみなければなるまい。

そして出来れば、その言葉における自分の概念を確立しておきたいものだ。

そうすれば、これまで意識して自分で使うことを避けていたこの言葉を、屈託なく使うことが可能となる。
もちろん「ドイツ的とは何か」の説明をつけての話だが。

でもそうなると、概念化したものを包括して、言葉にすれば良いから、わざわざ「ドイツ的」という言葉を使う必要がなくなるかも知れないが、しかし短い言葉で多くを語れるから、便利であることは間違いない。

適宜な概念が確立できるか、はてまた、やはりこの言葉による表現は、無意味だから、今後も使わないといった、結論になることもあると想定されるが、どうなることやら。

「「ドイツ的」、あるいはもう少し具体的に、演奏を表して「ドイツ的」と聞いたとき、何を想像想定するかを、まず整理してておかねばならない。

小生の場合想起するものとしては、以下のような項目がある。

重厚、構造的、楷書体、着実、冷静沈着、伝統、地味、頑固、拘り、暗い森、歴史、精密、職人、勤勉、燻銀、鈍重

ざっと以上の言葉が思い浮かぶが、多分それらは、今まで様々な人が音楽を表現してきたときの言葉が、知らず知らずにに定着した結果であろう。

この指揮者の音楽は「ドイツ的」だ、という表現で連想するのは、イメージが似通った、上のいずれかの言葉の複合中に存在することが多い。

そしてなかで最も多いのは、重厚、構造的という言葉で表されるイメージであることのような気がしている。

しかし果たして、ドイツ的=重厚で構造的という、代表的な言葉のイメージがもつものだけで語ることができ、それで狙いのものを語れたということになるのだろうか、そしてそれで納得出来るものだろうか。

「日本的」に置き換えてみれば、説明表現するべき事柄が多過ぎて、それゆえに大事なものが表現できない語れない、そんなことに気がつくからなおのこと、「ドイツ的」を、単視眼で表現してしまうと、そこで完全な思考停止に陥ってしまうことになる。

振り返れば、「ドイツ的」という言葉の概念など確立しなくても、ボンヤリとした何おかをつかめれば、よかったのかも知れなく、そしてそれ・・・ボンヤリとした何か・・・言わずもがなのようなものが得られること、それは日本人共通の思考法であったのかも知れない。

でもそのことは、共通認識の土壌があった時代には通用したが、価値観が多様化した現代においては到底無理なことであろう。
だからこそ言葉の意味を指し示すもの、つまり言葉の概念が、昔に比べさらに強く求められるのではないか。

それはさておき、この言葉がよく使われる場面を考えたときに、真っ先に思い浮かべることができるのは、生粋のドイツ人演奏家に対してのようで、そうした演奏家に対する評論の中に多いのは事実である。

そういう演奏家・指揮者に、シューリヒト、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヨッフム、クレンペラー、ケンペ、ベーム、カイルベルト、ホルストシュタイン、テンシュテット、サバリッシュ、スイートナー、ザンデルリンク、ヴァント、マズア、ケーゲル等があり、これらの指揮者の演奏の特徴を指し示す1つとして、「ドイツ的演奏」という言葉が使われてきた。

準ドイツ人では、コンヴィチュニー、イッセルシュテット、クライバー、クリップス、ラインスドルフ、カラヤン等があるが、最初の2人以外の、とくにカラヤンにドイツ的という言葉を使った例は、あまり見かけない。

非ドイツ人系の指揮者には、殆ど使われないに等しく、あえて言えば、フリッチャイがドイツのオケでドイツ音楽を振った時に対してぐらいだろうか。

学生時代、男に男性的、女に女性的という言葉を使うのはおかしい、と言う持論を曲げない先輩がいた事を思い出した。
多分そのことは、かぶせた意味の・・・二重の言い回し言葉になるから、そして分かりきったことで無駄な言い回しだというのが、その理由だと思うのだが、真意を確かめたことはない。

先輩に言わせれば、ドイツ人の指揮者の演奏を表現するのに、「ドイツ的」という言葉は、おかしいということになるのだろう。

統計をとったわけではないから、感想に過ぎないが、どうも生粋の少し古い世代のドイツ人で、往年の演奏スタイルの指揮者に対して、「ドイツ的」という言葉が使われる頻度が高そうだ。

このことは、ドイツ的≒古めかしい、伝統、堅実、正確、重厚、といった言葉の象徴的表現として使われていると見て良いだろう。

加えて、渋い、鈍い、着実、忠実、隙がない、集団的、という意味合いが含まれていることがあるようだ。

上に挙げた指揮者以外にも、該当するものはまだまだあるだろうが、小生が聴きなれたものに限定しておくことにしたので、最近の人については記載しないし、演奏を聞く限り、最近の若手の人の多くは、そのような概念でくくることが難しいのではないかと思うことがある。

カラヤンに関しては、ドイツ的云々は、小生の知る限りでは、ほとんど聞こえてこなかったようだ。
これは何故か、興味があるが、この件に関しては今後の課題とする。

主にドイツ最古参のオケLGOを率いて活躍したせいだろうか。
コンヴィチュニーは、純粋ドイツ人ではないが、しかし、あまたの指揮者の中で、最もドイツ的という言葉で、表現されることが多いと思われる。

ぜひ言及して置かなければならないこと、それはオーケストラについてであり、ドイツのオケの紡ぎ出す音楽を、指揮者ともに「ドイツ的」という表現で語られることが多いということだ。

上記の指揮者がフランスのオケを振った音楽を、「ドイツ的」とは絶対に表現せず、たとえそうであっても、違う言い方をするのではないだろうか。
まして、フランス人指揮者がフランスのオケを振った演奏、例えばミュンシュ/パリ管のブラ1、これはドイツ的と言って良い演奏だと思うのだが、ドイツ的という表現をしたものを見たことがはい。

新旧入れればもっと多いが、上記指揮者との組み合わせが多く、例えば「ドイツ的な響き」と言われることがあるものに絞ると以下のオケがその代表だろう。。

ベルリンフィル、シュターツカペレドレスデン、ゲヴァントハウス管、jハンブルグ響、バンベルク響、バイエルン響、ミュンヘンフィル、など。

お隣りのウイーンフィルに対しては、どの指揮者との組み合わせにおいても、「ドイツ的」という言葉はあまり出てこないように思う。(ベームがそうだったかも知れない)

もっと調べなくてはならないが、このあたりで、「ドイツ的」という意味合いを探ることに話を進めたい。

どうもドイツのオケ、ドイツ人指揮者、そしてそれらの組み合わせが作る音楽の表現に、「ドイツ的」という言葉が使われることが多そうなのは、間違いないことであると思う。

もっとも、ドイツ人の組み合わせで演奏するのだから、「ドイツ的」は、奇異でないはずで、そのニュアンスはなんとなく分かりようもある。

しかし「ドイツ的」という言葉で表現される演奏の印象はというと、受け取り手によって、千差万別とは少し大げさだが、確固たる特定をすることは困難で、最も近いものとして、先に挙げた、「ドイツ的」で連想するものの中の、複合となってしまい、相変わらず消化不良は続く。

誤って伝わるおそれが十分にあるから、それでは評論家など執筆を生業としている諸氏の、文章表現としては、最適とは言えない。
しかし、逆に曖昧にすることを意識して、演出する人がいるように思うところもあるから、事はそんなに単純ではないようだ。

これらのことを踏まえ小生は、主にドイツ人による演奏に、「ドイツ的」という言葉を使う理由を、「ロマン主義」そして「ドイツロマン派」の特質を探ることで、つかむことが可能になるのではないだろうかと、仮説を立ててみることにした。

懐かしくも学生時代に帰ったようだが、この際、「ロマン主義、ドイツロマン派」について、簡単に整理し、まとめておくことにする。

「理性」と「感性」、「普遍」と「個」の対比における後者がロマン派の特徴。
対立概念は「古典主義」。
18世紀末~19世紀末に、その潮流は顕著になり、その旗頭は「ドイツ」。
ドイツロマン派の影響はヨーロッパ規模であったが、元祖のドイツに、かなり強力に根付くことになった。
文学における、シュトルム・ウント・ドラングが、芸術領域に影響し、詩、演劇、絵画が反応、技術の陶冶が強く必要とされた音楽は、伝統的保守的で、潮流に乗るのが遅れた。
啓蒙主義的な発想から、個また個の内面の感情や想いの表現への転換。
国民、民族意識の覚醒。
他の芸術とのかかわり、コラボレーション。
「異」なるものへの郷愁。
食べ物、異国の寓話、異形なるもの、架空空想、未知への興味。
自然回帰
自他国の民話童話に学ぶ姿勢。
異界魔界への興味。
非キリスト教化の動き。
ユダヤ人の台頭。
昔帰り思想と新しいことへのチャレンジ意欲。
ギリシャ・ローマ時代文化芸術への郷愁。
市民社会、大衆の出現による音楽・芸術環境の大きな変化。
有力パトロンの減少。
室内楽等個人的なものと、大衆向け巨大化音楽の出現。
エキゾシズム、オリエンタリズムの輸入。

以上参考文献を踏まえて、ザックリと上げてみた。
これらのことから、「伝統と革新」「内容が形式を破壊する」といった要素が混在し、結果「自己矛盾」に陥った時代であると考えられるから、「自己矛盾」の時代という言葉でロマン主義、ドイツロマン派を表現してもいいように思われる。

つまり
一方で有ることを望むが、他方ではそれを否定して見せる。
あれかこれかという2者択一から、あれもこれも、という欲求が目覚める。
個と集団、家庭と国家意識などの対立概念の無意識的同居。
インターナショナリズムとナショナリスムの葛藤。
それらの矛盾を抱えながら、ドイツロマン派は、時代を乗り越えて行かなくてはならず、それらからスピンオフした優秀物をたくさん輩出した。

例えば新即物主義、表現主義も、ドイツロマン派からのスピンオフ。
カールマルクスもその一人だと小生は思っている。
ロマン派から派生したユートピア、それがマルクスの思想と結びついて行くように思うのである。

このような例を示すまでもなく、ロマン主義、あるいはその中心的存在の、ドイツロマン派が、後世・・・ドイツのそれに及ぼした影響は、計り知れない。

このことを前提するなら、「ドイツ的」とは、ロマン主義的、ドイツロマン派的、と言い換えてもよさそうだ。

古いものと新しいものの共存。
自分流。
オリジナリティと模倣の重視。
日常と非日常の絶え間ない日々。
現実と架空。
異次元なるものへの憧れとと安定した現実の欲求。
予感と現実の格差。
個の範疇の己と社会的己。
規律の中の自由、自由の中の規律。

以上のように、対立軸上にあるものを、内包しながら、時には止揚しながら生きていくこと、それはいずれも人生の「矛盾」の克服に尽きるようだ。

そしてそれらのロマン派の基本的概念把握は、「ドイツ的」とは何かを探るのに、非常に重要なことだということが認識できる筈だ。


音楽の演奏に絞ると、例えば、ソナタ形式で作られた曲を演奏する際に、そのことがとても顕著に出るような気がする。
一般的にソナタ形式は、古典派の時代、つまりハイドン、モーツザルト時代に成立進化したといわれるれるが、音楽の重要な目的の1つを、ダイナミクスにおいた、ベートーヴェンで、ソナタ形式は本格的に開花した。

小生はベートーヴェンを、ロマン派の中に入れる方が正しいのではないかと思っている。
その意味でロマン派の時代にこそ、ソナタ形式は本当に進化を遂げ、さらに発展変化して、後人に受け継がれていくのである。
つまり対立概念や自己矛盾の克服、止揚のストーリーがソナタ形式に内在すると見るからである。

質実剛健、オーソドックスという言葉でドイツ的なるものを表すことがあり、その言葉が使われる対象として、フランツ・コンヴィチュニーという指揮者と組み合わせでゲヴァントハウス管の音楽がある。

しかしながら、彼らの演奏をよくよく聞いてみると、彼らの演奏が決してその言葉だけで表現できるのではなく、まさにドイツロマン派の特徴とオーバーラップすることが多いことに気がつく。

近代オケが取り入れたビブラート、そして第1と第2Vnを隣同士にしたオケ配置。
それらを昔から今日まで一切取り入れてこなかった、いわば格式と伝統を重んじる両者。
LGOは、指揮者が変わっても、ノンビブラート、オケの両翼配置を変化することはないようだ。
ここ30年ほど前から、ノンビブラート、両翼配置に代表される、ピリオドアプローチ演奏様式がとりざさされてきたが、ゲヴァントハウス管は、250年前からこの方式を採用してきており、近代楽器を使っている今でもそれを守っており、ピリオドアプローチの演奏以上に伝統的かつ革新的な音の表現をすることができるオケだ。
演奏しやすい改良管楽器を使うことをあえてせず、オーケストラ所有の昔ながらの楽器を使うという伝統もある。

しかしそのことが大いなる誤解を生んでいて、これらの環境において、コンヴィチュニーという、カペルマイスターとともに、創りだされる音は、渋くて鄙ているが、どっしりとした安定感がある、という論評がその最たるものだ。

しかし、楽器がが古く、ノンビブラート奏法の音が、そんな言葉で表すような音を実際に出すのかどうか。
そしてそのことは、コンヴィチュニー以前のゲヴァントハウス管の特徴として最も多く語られる。

それを認める人にとっては、コンヴィチュニー亡き後の、ゲヴァントハウスを称して、ゲヴァントハウス的≒ドイツ的あるいはドイツ伝統の音と言い換えることができるが、それが無くなってしまった、あの懐かしい、渋くてまるでいぶし銀のような音は、どこに行ってしまったのか、と言って嘆いている文章が未だに数多く散見される。

槍玉に挙げられるのは、かわいそうに、いつもクルト・マズアだ。

ほとんどが、コンヴィチュニー時代と比較しての言及で、しかいそれは、古きよきドイツを幻想的に語るのと同次元である。

残念なことに、そのような人の多くは、コンヴィチュニーとゲヴァントハウス管の一部・・たいていはベト全か、良くてシューマン、そして「オランダ人」、最近ではショスタコーヴィッチも聞けるようになったが、主に最初の2つあたりでの感想に基づくもののようだ。

2002年に生誕100年記念で、コンヴィチュニー全集が相次いで発売され、それを契機に聞くようになった方もおられるが、それまで聞ける音盤は、特にLGOとの演奏は、ベト全かシューマン全ぐらいであり、よほどのコアなファンでない限り、熱心に聞く対象ではなかった。

小生は、LP時代複製各種マスターから製作された国内盤、そしてオリジナルに近い海外盤、CD時代には、BC盤EDEL盤と聞いてきたが、これぞゲヴァントハウスという音は、ETERNA盤で、これで聞くコンヴィチュニー/ゲヴァントハウスは、他のメディアで聞くときの音や雰囲気とかなり違う。

弦の音は艶が乗り、乾いた音、鄙びた音は全くしない。
ノンビブラートも、正しい奏法をして演奏すれば、ビブラートをタップリかけた弦の音に遜色ないばかりか、いぶし銀のような古びた音色ではなく、シルキートーンという表現のように、もっとなめらかで、明るく、変化追従能力の高い音楽を聞かせてくれるのだ。

最近はやりの、ピリオドアプローチによる演奏をお聞きになれば、弦の音色がちっとも渋くなく、暗くないばかりか、ハツラツとして明るいことがおわかりになるはず。

録音のせいで、せっかくのゲヴァントハウスの弦の音色が、本来とはかなり違う音色に変化してしまったことによる誤解の産物が、乾いた音、鄙びた音、古色蒼然などという表現を、使わざるを得ない印象になってしまったものと考えられる。

モノラルだが、比較的録音状態のよいいくつか・・・例えばベト5.7番のゲヴァントハウス管とのライブとか、オケこそ違うが、ベルリン放送響とのブルックナー、最近マスターテープが発見され、復刻されたバンベルク響との新世界、チェコフィルとのザ・グレイト、さらに極めつけ、来日公演のLGOとのベト9を聞けば、ベト全でのゲヴァントハウス管の音のほうが特殊であったことがわかると思う。

ベト全では正攻法で攻めたコンヴィチュニーだが、5・7番のライブ音源では、凄まじい盛り上がりと、実に変化点が多い音楽を創り、オケを自在に操ってている。
そして、もう少しで音楽が破綻しそうなギリギリまで、オケを引っ張り抜いて、自分が表現したいベートーヴェンを追求してみせた。

それでいて、楽曲の重要な箇所、例えばソナタ形式楽曲の各部分そして全体を通して、音楽的つじつまが合い、音楽が立派に成立していて、かなりの説得力を持った音楽になっている。

ドイツの戦車部隊がいるかと思うと、突然聖チェチーリアが舞い降りる、そのような対立概念を止揚し、いつの間にか音楽から解き放って見せるような結末を見せる。

そうした展開の巧み、さらに一旦染まれば抜けだすことが困難なほど魅力的な、アゴーギグによって、1聴すれば、すぐにコンヴィチュニーだとわかる、大きな特徴を持ち合わせている、近年珍しくなってしまった指揮者である。

酒に溺れそうな自分と音楽表現者としての自分が、同時に存在すること。
それを十分心得ていたようで、酒で赤ら顔のまま演奏台に上がっても、その演奏は、一切ブレることがなかったようで、アルコール依存症との汚名を着せられるコンヴィチュニーの中には、ロマン派特有の精神的2面性があり、密かに戦っていたのではないかと想像される。

このところ意識して、LGOが演奏したいくつかを聞いてきたが、コンヴィチュニー以後変化した、よくいwれるそのようなこと、実際には大したものではなく、オケが変化したとい言うより、束ねる指揮者の技量によって、音楽が変化した、そういった方がより正解ではないかと、強く思うようになった。

ノイマン、マズア、ブロムシュテット、ザンデルリンクと、いくつかの楽曲を聞いたが、ビブラートの薄め、やや薄めぐらいの差はあるにしろ、LGOそのものの基本姿勢にほとんど変化はなく、音色も言われるほどの変化がない。

ただシャイーは、ネットでしか見聞きしてないが、その範囲で言うことが許されるなら、変化点が多そうであるが、これについてはサンプル数が少ないから、いずれということにしておく。

長々書いてきて「ドイツ的」の概念形成ができたかと聞かれれば、YESとは言えないが、ロマン主義ドイツロマン派が、「ドイツ的」なるものの基本的内容形成に、大いに影響、貢献しているということの推測が、外れてはいなかった、とということを思い知った気がする。

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by noanoa1970 | 2011-05-06 11:32 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by HABABI at 2011-05-06 21:00 x
こんばんは
私は演奏を聴いて、ドイツ語的、フランス語的という印象を持つことがあります。但し、ドイツ語圏の中でもウィーンは特別な所です。普段話している言語の響き(母音、子音)や論理性が演奏に影響するのではないかと思います。ちなみに、日本人には英語の発音より、ドイツ語の発音の方が聴き取りやすいと思います。
カラヤンの場合は、私もよく分かりません。独自のものを出そうとして、精神性のようなものを志向せず、1960年前後はスタンダードな演奏を、その後はあくまでサウンド志向・美の追求、でも晩年は何だかよく分からなくなっていたように思います。HABABI
Commented by noanoa1970 at 2011-05-06 22:10
HABABI さんこんばんは
書いているうちに理由が分からなくなってしまい、仮説は、入口でストップ状態に終わってしまいました。
ドイツロマン派の潮流によって、影響を受けた面は、否定できないけど、それがすぐにドイツ的に繋がるかは、まだまだ深堀が必要でしょう。
言語からの視点、とても面白そうです。
ドイツ語圏に枠を広げてみると、もう少し違ったものもみえてきそうです。普段使うことばが、演奏に何らかの影響を及ぼしていると、仮定した上で該当者の演奏を聞いてみるつもりです。コンヴィチュニーがドイツ的と言われることが多いのも、チェコのドイツ語圏の街で育ち、東ドイツで生活したからかもしれません。もしスラブ語を話すだけなら、演奏に民族色が出るやもしれませんね。スラブの血があるのか、チャイコ4.5番では驚くほど集中した熱烈な音楽が聞こえます。