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マラ5・アダージョをシェルヒェンで

最近、聞く音楽が少なくなってきたようだ。

不定期的に昔から、音楽が聞けない時期が来ることがあったが、今回の要因は、それとは違って、あたらしい音盤を入手していないためである。

事実今年に入ってから、もう5ヶ月近くなるのに、1枚たりとも入手してないのだ。
それでも、過去に入手したがあまり真剣に聴いてなかった音盤を、取り出して聴いてきた。

それは必要なことで、数多くの音盤コレクションを持っている人をかなり見かけ、中には1万枚も所有しているという人もいる。

クラシック愛好年齢が15歳以上現在50歳と仮定すると、1日1枚聴いたとしても35年間でようやく12000枚聞けることになる。

実際に関わる年数は、もう少し少ないであろうと思っていいし、1日1枚必ずCDを聴くのも結構大変なことだから、実態はもう少し少なくなると思われる。

推測するに、そういう人は、チョイ聴きして放っておいた、あるいは全く未聴の音盤を相当お持ちではないだろうか。

小生はさほどの枚数は持ってないが、それでもチョイ聴きしたままの音盤は、少なからずある。

音響装置と音盤の相性や聴く側の体調などなどの条件で、音盤の表面的な自己判断をしてしまうことは、いけないことと思うのだが、そうなることもままある。

しかし音響装置の調整がうまくいったときや、気分が良いなどの環境が整ったときに、そういう音盤を聞くと、以前聴いたときと全く違う印象を得ることがあり、そして評価も劇的に変化することがある。

さて、本日はそのような音盤として、ヘルマン・シェルヒェンのマーラー5番からアダージョを取り上げることにした。

使用したスピーカーは、調整が勝手ありえなかったほど、すごくうまくいったYAMAHA<NS1000、QUADが故障したからやむなく使っていたが、ここ数年あることが切っけけで、苦節40年、クラシックもタンノイを凌駕するぐらい、素晴らしい音を聴かせてくれるようになったのだ。

アダージョ、もちろん全曲を聴いた上で、あえて取り上げることにしたのは、以前聴いたときはアダージョ楽章まできちんと聴かなかった・・・というより聴けなかったからだ。

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小生所有の音盤は、フランス国立放送管とのライブ演奏で、最初に聴いたときのスピーカーは、QUAD、ESL-63だったが、過渡特性が良すぎるのか、ライブ録音のアラを全部だしたから、音のバランスが良くなくて、シンバルの音がやたらと前に出てしまい、得意のはずのハープは、かなり引っ込み気味であった。

QUAD,他の音盤は難なくこなすのに、この音盤はどうしても相性がわるいらしく、弦の音色もギスギスしたから、それ以来棚の奥にしまいっぱなしになっていた音盤であった。

実は本日、先にテンシュテット/ロンドンフィルの演奏を、これも久しぶりだったが聴いて、改めてその良さがわかったので、こちらを取り上げようと思ったのだが、そういえばほとんど聴かずじまいのシェルヒェンがあったと、棚を探し出してそれを聴いたところ、以前の印象とはまるで違い、特にアダージョ楽章のすばらしさは天下一品ではないのかと、シェルヒェンに変更したというわけだ。

シェルヒェンという指揮者は変わり者である、という見方を以前からしてきたし、そのことは一連のベートーヴェンを聴けば分かりやすい。

まるで学生の素人オケを、好き勝手な解釈で操ろうとするが、あまりにも瞬間瞬間に、テンポを揺らすは、ルバートするは、こんな時にと思うようなところからクレッシェンドするは、勝手に編曲するは、それらが相まってか、オケが全くついていけず、ある箇所では完全に音楽が破綻しているところも散見される。

しかし、そんな細々したところは、聞き終えたときには全く気になっていなくて、むしろそうまでしてオケがいっぱいいっぱいになろうと関せず、自分の思いのたけを表現させたそのひたむきな姿勢に、感動すら覚えてしまうから厄介な指揮者なのだ。

だからだろう、熱心なファンが少なからず存在するのも、今では見られなくなってしまった「カリスマ」を、みて取れるからとも言えそうだ。

マラ5も尋常な演奏ではなく、前にテンシュテットのおおらかな演奏を聞いたから、余計に奇異に映る。

聴いていて、何か他の演奏とは音楽が違うような気がして、先ほど調べると、常識では考えられないようなこと、譜面にある小節を大胆にカットしているとのことだ。

それも200小節に及ぶいというから、聞こえてくる音楽は通常の演奏とは別物のように聞こえるところがあるのも頷ける。

なぜ200小節もカットしたのかは、大変興味があるが、本日はそこには触れないで、というよりまだ推測もしてないから、いずれまたということにする。

奇異な楽章が続くシェルヒェンだが、4楽章のアダージョになると、これが面白いことに「まとも」、まともすぎる以上にまともな演奏に変身する。

いや、「まとも」というよりその言葉を超越した言葉が適当だと思うが、今すぐにその言葉が見当たらない。

それまでの演奏が奇異だから「まとも」といったが、先に聞いたテンシュテットのアダージョ以上に情緒的だから、こういう演奏を聞くとシェルヒェンの本質はさらに遠くなって、並の人間の想像力を超えた存在、つまり怪物というしかなくなってしまう。

ベートーヴェンの第9、3楽章でも見せなかった、甘味で情緒的で、心の奥の襞をくすぐり、優しく撫でるような音楽がここには存在する。

聞き方としては、通常ではあまり感心しないが、シェルヒェンのマラ5は、アダージョだけ聴くのもいいと思う。

そんな聴き方も悪くないのではないか。

マーラーの5番アダージョ楽章は、おそらくそのような聞き方にも十分耐えるばかりか、十分通用する音楽ではないだろうか。

マーラーの音楽、特に交響曲を小生は、全ての楽章をひっくるめたときは、ブルックナートの決定的な違いだと思うのだが、あまり良くわからない音楽だが、楽章単位ではそれぞれ意味合いを強く投げかけることが多いと思う。

楽章ごとの独立具合が強いのは、マーラーの音楽の特徴ではないだろうか。

そしてマーラーは、こちらの精神状態が良い時でないと、聞けない音楽でもある。

さらに聴くものを振り回すから、相当注意位が必要だ。

by noanoa1970 | 2011-04-27 18:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by cyubaki3 at 2011-04-27 21:16 x
マーラーの第5はアダージェットですね。アダージョとアダージェットの違いは微妙ですが。指揮者の解釈次第というか、実演では区別がつかないでしょうね。

私にとってブルックナーはマーラーの解毒剤という感じです。マーラーを聴き過ぎたと思ったらブルックナーで中和。
Commented by noanoa1970 at 2011-04-28 09:38
cyubaki3 さん
いつもコメントありがとうございます。
アダージェットということはいずれもの解説でそうなっていますから知って履いたのですが、なかなかニュアンスが掴みにくいと思って、あえてアダージョとしました。それとマーラーの場合は、速度記号ではなく「ミニ」アダージョと言うとの説もあり、小生はゆったり気味の演奏が好きなことも相まって、アダージョとしたのでした。

ブルックナーがマーラー聴き過ぎの解毒剤とは、面白いですね。

よくブルックナーとマーラーは同じようなくくりで語られますが、音楽が全く異なっていて、たぶんそれは音楽の冗長度の差、言い換えれば息継ぎの長さの差だと思うことがあります。ヒアリングの限りでは、アクセントの位置がブルックナーは前に、マーラーは後よりのことが多いようにも思います。小生自身は、マーラーの音楽は全てを記憶しかねますが、ブルックナーは、ほとんど覚えられます。しかし少し聴いただけで見分けが付くのも両者の特徴でしょう。
ブルックナーが予定調和的なのに反し、マーラーの音楽は非予定調和的のようにも思います。