ベト4をコンヴィチュニーの別演奏で聞く

小生が自分で初めて購入したのは、フォンタナから発売された4番と5番の組み合わせのLPであった。
このレコードはずいぶん聞いたもので、小生の記念碑的レコードでもある。

それからずいぶん経ち、CD復刻されてからは、コンヴィチュニーの全集から、ライプチィッヒゲヴァントハウス管の演奏を聴いてきたが、LPと比べても他の番手に比べても、ややコンヴィチュニーらしさにかける嫌いがあって、それほど頻繁に聞く曲ではなくなっていた。

そんな時をずいぶん過ごしたある日、過去のブログにも書いたように、ケーゲルの演奏を聞いて、4番の良さを再認識することとなった。

それでついでに、巷で大好評だった、カルロスクライバー盤を引っ張り出して聞いたのだが、期待ほどのものを与えてくれなかったし、バイエルン国立管との1986年来日ライブも、小生の好みからは遠い存在であった。

こうなると、どうしてもコンヴィチュニーの、4番の素晴らしい演奏を聞いてみたいという欲望が頭を離れない。

7番や5番6番はコンヴィチュニーのライブ録音が発売されているから、ますます音源の異なる4番が期待された。

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FORLANE UCD16674/75)2枚組

もうだいぶ前のことだが、待った甲斐があって、4.5.9がカップリングされたCDを発見。
オケはと、小さい文字を目を凝らしてみると、ライプチッヒ放送交響楽団とあった。

出来ることならゲヴァントハウス管とのライブを期待したいところ、というのも、コンヴィチュニーの演奏は、スタジオとライブで、相当違いがあり、ライブでは思いの外熱いものを感じさせてくれるからだ。

でもそんな贅沢言っておれない。
録音が少ないコンヴィチュニーの、新たな音源発掘があって、CD復刻されたのだから、其れだけで十分聴くのに値する。

本日は、放送響との演奏で、ゲヴァントハウス管との全集盤とは違う何かを発見したいと思い、4番を久しぶりに聴いてみた。

全集盤での中途半端な重苦しさとは違い、放送響との演奏は、意外や意外、重苦しいところは全く無く、明るささえ垣間見れるような演奏で、かなりの驚きを隠せなかった。

テンポこそ、いつものコンヴィチュニーなのだが、弦楽器の柔らかい音色と木管の流麗さ、金管の鋭さが相まって、明朗なところと溌剌さを醸し出しているではないか。

マスターリングのせいか、弦楽器の音色がとてつもなく滑らかで、ビブラートをたっぷり掛けているように聞こえdるが、決してそうでない事に、このオケの底力を知ることになった。

最もアーベン・トロットによって、鍛えられたオケだから、当然といえばそうなのだが、ドイツのオケは、あまりその名前や存在がしれないものも、総じて実力が高い。

モノラルだから事実が不明だが、これまでの常から推測すると、オケは両翼配置であろう。

小生はかねてから、コンヴィチュニーの演奏スタイルから、両翼配置を取る指揮者であることを推理してきたが、有名なベト全が近代配置なので、世間ではそう思ってなかったようだ。

しかし来日公演の第9がステレオ録音で復刻されたのを聴いて、第2Vnが向かって右から聞こえてきたので、両翼配置であることが確認できた。

1楽章で第1主題が登場する直前、弦が、まるで運命の同期と同じリズムで、タタタターとクレッシェンドしていって、そこからグリッサンドしながらクレッシェンドして、上昇していくところの表現は、並み居る演奏の中でも特に素晴らしく、1音ごとの音魂が、激しく心を揺さぶってくる。

第2主題の前打音は、全集でもそうであったが、ココでもいれていて、この方法は小生が好きな物で、4番の演奏評価のメジャメントでもある。

例によってコンヴィチュニーは、展開部でのダルセーニュを行っているが、一音一音噛み締めるように、上昇下降していく音楽は、何度でも聞きたいという欲求に駆られるから、ダルセーニュの意味合いは大きい。

ケーゲルもクライバーもクレッシェンドが劇的に急に大きくなるなのに比べて、コンヴィチュニーはリニアなクレッシェンドだから、ドキッとすることはないが、それでもPPからFFまでの強弱の差はかなりのもの。

コンヴィチュニーの特徴でもある、リタルランドとアッチェレランドの巧みな速度の変化と、強弱の変化は、前時代的だと嫌う人もいるが、小生はそれがとても気に入っている点の一つだ。

コーダの大見得をきるようなリタルランドは、いつ聞いても、一昔前のクラシク音楽の花盛り時代を偲ばせるようで、今ではこのようなことをする、あるいはできる指揮者がいなくなってしまったことが残念で仕方が無い。

スタジオ録音番では、どちらかと言えば厳しい演奏であったが、放送響との演奏では、実によく歌っていて、ライブのような、あるいは聴衆を入れた放送録音と推測することができるような演奏である。

おどろおどろしいケーゲル、高速で快活だが音の厚みに乏しいクライバー、失敗を恐れるあまりなのか、慎重になってしまったコンヴィチュニー全集盤。

それと比べて、コンヴィチュニーとライプチッヒ放送響との演奏は、この曲が隠れ持つ「しなやかさ」と、夜明け前の暗さから太陽が登ってくる直前、山際が少し明るくなって、空の色がグラデーションに変わるように、とてもリニアな音の変化がよく表現されていて、4番の交響曲の素晴らしさを、ケーゲルとは違うベクトルで、認識させてくれた。

カップリングの「運命」、全集盤よりも放送響とのほうが小生の好みである。

音を噛み締めながら進んでいくところが散見され、1楽章コーダの大見得は、今だかって聴いたことのないほどの大仰なところが、コンヴィチュニーのベートーヴェンへのオマージュが、いかに大きなものであったかを知らせてくれる。
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by noanoa1970 | 2011-04-06 16:48 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)