進む勇気、退く勇気。

前回のブログでは、ベルリンフィルとベルリン国立歌劇場管と合同で開催された、日本大震災チャリティコンサートのニュースをお伝えした。

しかしその一方で小生は、我が国の国有オーケストラ、通称N響の海外公演について思うところがあるので書き記す。

1960年から始まった海外公演は、すでに50年の歳月を数え、N響にとっては世界にその実力を示すための、重要なイベントであることは言うまでもない。

今回N響は北米ツアーを組み、都合4回の公演を行った。
N響客演名誉指揮者で、今や巨匠の感のあるアンドレ・プレヴィンの指揮になる公演だ。

彼らが北米ツアーに旅だったのは、「3月12日」。

日本大震災の次の日のことだった。

小生は後日、そのコンサートの模様が放映されるのを、録画して観ることとなったが、NHKは、このコンサートを「追悼コンサート」の位置づけにしたように、「祈りのコンサート」というテロップを入れて国内放映した。

N響は4箇所すべてのコンサートで、バッハの「G線上のアリア」を、弦楽合奏で演奏し、被災者への追悼を表した。(最初からそのツモリなのか、急遽変更位したのかは定かでないが)

N響理事の某はインタビューで、「演奏家の使命は演奏することにある」
「日本が厳しい状況にあるからこそ、優れた演奏を行い、立ち上がる日本の力強さを示し、」
「そしてその演奏を日本にも届けたい」といい。

第一コンマスは、「私達はまず演奏家であり、演奏することで、何かを目指すことができる」
「日本の家族のことは、もちろん心配だが、・・・」といった。

彼らが北米へ出発したのは3月12日、まだ大震災の被害状況も詳しくは報道されてない状況だから、まさかこのような未曽有の大災害になるとは、思っても見なかったであろうが、それにしても、そうなる兆候は報道されていたはず。

N響のトップ2人からは、大災害を目の当たりにしながら、海外公演に踏み切ったことに対する、弁明じみた言葉が発せられたが、結論から言えば、小生は海外公演を即刻中止し、しかるべきタイミングで国内でのN響チャリティコンサートとして実施することをなぜ選択しなかったのかと、先般のドイツベルリンの2大オケと巨匠による義捐コンサートのニュースを見て、なおのことそう思ってしまった。

総勢100名余りの海外公演だから、収益はあっても支出のほうがかなり上回り、それは国民の聴取料すなわち税金に似た性質のものから支払われる。

かかる経費の側面から見たとしても、この湯な時期に果たして適切であったかは、非常に疑わしい。

海外での、取ってつけたような、日本大災害追悼コンサートでは、日本国民の手放しの満足度は到底得られるはずがない。

比較してしまうが、ドイツベルリンでは、過去の慣例にない、そして企画自体が時間的に組織的に、もろもろにおいて困難を極める中、両知能の英断で他国の復興と追悼の義捐コンサートを開いたのだ。

それに比べて、我が国の国有オケはどうだろう、行くか行かざるか、多分悩んだはずであろうが、結局は行くことを選択した。

彼らを、自分で言うとおりの演奏主体としてだけの存在であれば、この判断も正しいと思うところもあるが、まず演奏家ではなくまず人間、そして日本国民なのだ。

こんな時だから余計に、何世紀か前の芸術至上主義者の言い分、そして弁明のように聞こえてしまう。

しかし、どんなに稽古練習し、事前準備に苦労し、計画が出来上がっていて、会場は手配済み、チケットも売れ、飛行機のチケットなど、必要なものはすべて取得していたとしても、中止する勇気がなぜ出せなかったのか。

実行することの勇気もあるだろうが、ことが事だけにココは中止する勇気が必要であった。

海外公演のチャンスなどは、今後いくらでもある。

公共放送機関すなわち国営のオーケストラが、こんな時、日本で何らかの応援の力を発揮しなくてどうする。

演奏家の使命は演奏にあるとか、厳しい状況だから優れた演奏をし、それを日本に届けるとか、私達はまず演奏家であり、演奏することで何かを目指す・・・とかの言葉が空虚に響いたのは小生だけか。

大震災の最中の海外公演では、いくら取り繕って「義捐コンサート」のように見せても、そしてそのことが日本の国民に何かを訴えることなるという、大きな錯覚は、官僚主義的発想の最たるもの。

広報宣伝の助力が借りられる、そして国民に最も近いところにある自国内でやってこそ、「義捐コンサート」と大々的に銘打て、その反響と影響は、後付の海外公演の何倍もの精神的あるいは金銭的効果を発揮することだろう。


しかし今となっては、ドイツベルリン・・・海外のオケにさえ後塵をとってしまったN響。

N響、果たしてこの先、演奏家として、唯一の国有オーケストラ組織として、日本国民として、何をすることができるのだろう。

もしも海外公演という重要なイベントを中止し(重要であるがゆえに中止の重みがある)、国内での義捐コンサートに代替していたなら、今のような体たらくに見える様、にはならなかったと確信する。

新日フィルとN響の合同コンサートなどは、日本人の発想では多分望むべくもないが、様々な分野でのチャリティライブが盛んになってきた今、クラシック界、しかも構成員が多いオーケストラが何をするのか、後手に回っただけに、かなりの工夫が望まれることを指摘しつつ期待したい。

大規模のコンサートも良いが、小規模のユニットを組んで、被災各地をこまめに訪問し、音楽で慰問するという手段もあるだろう。

誰でもいい、始める人がいれば、あとに続く人も出てくるのではないだろうか。

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by noanoa1970 | 2011-04-01 09:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)