どこの海が好き

仮に今、こういう問いがあったとしたら、小生は北斎の千絵の海「総州銚子」 あるいは「神奈川沖波裏」と答えるかもしれない。

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小生は現実の海はあまり好きでなく、リアルには、どちらかといえば山のほうが好きだ。

しかし、絵画に描かれた海は、ドラクロアのディエップの海、ターナーの難破船の海、クールベの波、モネの夜の海、黒田清輝の上汐、いずれも好きな絵画だ。

それよりもっと好きな海は、なにをかいわん、ドビュッシーの「海」といってよいだろう。

絵画や例えリアルな海を見たとしても、刻々と変化し、その都度違った顔を見せ、刻々と変化する様子を連続して見ることはない。
通常絵画や写真は、一瞬しかとらえてないし、リアルな海のその時の表情は、一瞬の間に消え去る。

写真や絵画は、海の見せる光景の、ほんの瞬間を切り取って、映し出すことはできても、変化の様子を、しかも刻々と次の違う顔を見せる姿はとらえようがない。

リアルな海であれば、その瞬間は変容の過程を見ているように錯覚するが、実はそれは切り取られた瞬間の記憶の断片に過ぎない。

そして次の瞬間、前の記憶はオーバーライトされ、新しい記憶が出現するのだが、新しい記憶は絶え間ないがゆえに、結局は漫然たる単なる記憶に過ぎない。

凡人はせいぜい、綺麗とか迫力があるとか、透明感があるだとか、広大だとか、真っ青だとか言い古された言葉に置き換えてしまうのが関の山であろう。

ドビュッシーは、本心はきっと刻々と変容する「海」の様を、音でリアルに描きたかったのだろうが、考え付いたのは、海が見せるヴァーチャルな諸相の表現であったようだ。

リアルな海の音での表現が、不可能ということもあったろうが、むしろ積極的な意味で、ヴァーチャルであることが、よりリアルさを生むというパラドックスに行きついたのではないか。

そしてドビュッシーによって、その視点で創造された音楽という表現手段は、絵画や詩や写真そのほかの並み居る、いわゆる芸術の中で、初めて優位性を得る事が出来た。

楽譜では同じ音の羅列に過ぎないが、演奏という表現手段を介在させれば、その都度響いてくる・・・(この場合は海の刻々と変化するさま)はすべて異なるし、受容する側によってそれは各々異なる。

ドビュッシーは、潮の満ち引き、風の強弱、昼と夜、陰陽、など海の表情を変化させるものにも目を付け、朝日に照らされた波のざわめきや、天候の変化と穏やかさ、激しさなどのヴァーチャルな印象を音で表現しようとした。

その上ドビュッシー自身が想像もしなかったことが、諸相の変化に拍車をかけた。(ある程度は可能性として知ってはいただろうが)

それはドビュッシーの海を幾度となく聴くという行為、それも異なる表現、すなわち異なる演奏家で聴かれるという、録音再生技術による再生芸術の出現を、ドビュッシーが認識していたとは思えないが、それによって、ドビュッシーが表現しようとした変化の様子の再現は、日常にまで及んだのである。

変化や変容を表現する手段として、このように音楽という表現手法は、今や最適な方法であるといってよいのだと思う。

連続的不連続的、断続的な変化を時間軸として、しかもヴァーチャルに捉えようとした音楽は、ドビュッシーによって造られた音によって開花した。
これを印象主義音楽と、音楽芸術史ではいう。

ドビュッシーの海から得られる印象を、言葉であえて表現するとすれば、今すぐに思いつくものだけだが、以下のようにまとめることになる。

ヴァーチャルな海だが、時にはリアルな海への妄想をも生む。
静かな地中海や瀬戸内の海から、アイルランドのアラン諸島のドンエンガス や、波しぶき激しい日本海の荒れた海までの幅広い想像力をかきたてる海。
ドビュッシーが創造した音により表現された音楽が、どんな海なのかという想像力を掻き立てる。

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さて、ドビュッシーの「海」の演奏だが、小生はあえて非フランス系の演奏家の中から、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団のものがお気に入りだ。

お察しの通り、セルの解釈は、ドビュッシーの海が特定の海ではなく、であるがゆえに客観的な・・・(文芸の世界ではこのことを即物的あるいは芸術思想史的には新即物主義的という)表現スタイルを取る。
そして小生はそういう演奏を好みとする。

しかもクリーヴランド管弦楽団の、細密絵のように細部まで一切の手抜きも油断もない、そしてそのことが物凄く鍛錬された技術の裏付けによって、一切の隙がなくキッチリと具現化されるから、指揮者もオケも、すべてが納得づくの即物主義的演奏だといえる。

このような即物主義的(ザッハリヒ)演奏で聴くドビュッシーの「海」は、多種多様な海とその刻々変化するさまざまな表情を印象付けるのに最適である。

特に印象主義の音楽は、そもそもの作曲はもちろんだがそれに加え、演奏表現方法と、受容者が何度でも繰り返し聴くことが可能な、録音再生技術のバックアップが得られた現代になって初めて、その本領を発揮するようになった、そう小生は思うのである。

その一点の意味においても、比較的珍しいと思われるセルの、ドビュッシーの「海」。
スタジオ盤と録音状態に難はあるものの、より密度の濃いロシアライヴ盤での演奏は、並み居る「海」の中で、最も気に入っている「海」なのである。

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by noanoa1970 | 2011-03-10 09:00 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by drac-ob at 2011-03-10 22:25 x
これ、永谷園のお茶漬け海苔のオマケについてましたね(笑)。

それと、もうすぐお誕生日ですね。忘れるといけないので早めのおめでとうございますコメントでした。
Commented by noanoa1970 at 2011-03-11 09:29
北斎版画が永谷園のおまけ・・・記憶にあるようなないような。
誕生日のメッセージ、早々にありがとうございます。
いつの間にか、とっくに還暦を過ぎてしまいました。

自分では思わずにいようと思うのですが、どう見ても世間では、立派な老人です。
体力が極端になくなっているのを実感すること多し。