ベートーヴェン4番を開眼

常人ではないとの噂が蔓延した感のある、ヘルベルト・ケーゲル。

ベルリオーズの「幻想」の鐘の音を聴いて、そのあまりにもの奇怪さに、背筋が凍りついたとか、アルビノーニ・・・最近ではジャゾット作とする「アダージョ」の、死の淵を見るようなおどろおどろしい演奏に度肝を抜かれた人も多かったらしい。

癒しの音楽を集めたコンピレーションアルバムだったから、イ・ムジチやルツェルンなどで聞いた耳には、ケーゲルの演奏はとても奇異に聴こえたようだ。

ケーゲルはコンヴィチュニーと同様、東ドイツ出身そして東ドイツで生涯を終えた指揮者で、何故か一定の評価が得られるには、来日してからある程度時間が必要であった。

小生もケーゲルの名前は、来日時に知ることになったにすぎず、60~70年代オイロディスクに録音し、わが国ではコロムビアから発売された、数少ないLPの存在も知らなかった。

今ではそうでもないように思うが、10数年前、CDショップで、かれのベートーヴェン交響曲全曲とバロック癒し音楽コンピレーション、ブラームスドイツレクイエム、ベートーヴェントリプルコンチェルトのアルバムを含んだボックスCDが、格安で売られていたのを入手した。

総体的にCDの価格が下がっているころではあったが、それでもその価格はとんでもなく安価であった。

80年代半ばの録音だから、音源はよいはずなのに、ベートーヴェンの全集にも拘らずの信じられない安価設定は、ケーゲルの評価がそんなには高くなかったことの表れでもあるようだ。

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しかし、ケーゲルがドレスデンフィルを振って、録音したベートーヴェンは、事前に思ったよりも数段素晴らしい演奏を聞かせてくれた。

すべての番手の交響曲が、手放しで素晴らしいかといえば、決してそういうわけわけではないが、本日はその中から、4番の交響曲を取り上げることにした。

小生にとって4番は昔から何故か、愛好するまでには至らぬ音楽で、したがって聴くたびに漫然と音が鳴って過ぎて終わるという繰り返しであった。

コンヴィチュニー盤を聴いても、定評あるカルロス・クライバー盤を聴いてもそうだったし、7番を聞きたくて入手した、7番とのカップリングの4番も、相当種聴いてきたが、心にガツンとくるものがなかったため、ベートーヴェンの中では、もっとも下位に位置づけてしまうことになっていた。

そんな経緯があって本日、奇異な演奏をすると評判のケーゲル盤であれば、今までと違う何かが発見できるかもしれない、そんな淡い期待を抱きながら聴いてみた。

ケーゲルの3.5.6.7.9番は、今までにすでに聴いてきたが、避けてきたため4番8番はこれが初めてだ。

出だしの低弦部のピチカートの、不気味な響きにまずは驚き、続く最1Vnが殆ど運命の動機のようなリズムを伴って、クレッシェンドしていくところは、これから始まる物語を強く暗示するかのようだ。

弦パートそれぞれによって、高から低へと下降してゆくと、次にはすぐに弦の上昇がみられ、第1主題に発展するが、そのストーリーの緊張感は、只者ではないケーゲルを予感させるに十分だ。

重々しく地の底から湧き出るような出だしが象徴するように、ケーゲルのテンポと間の取り方は、4番の言いたいことは、運命と類似しているのでは・・・と推察するのに十分であるし、4番と運命が持つかなりの接点…いわば兄弟姉妹のような近親関係が強い作品であることの理解をもたらしてくれる。

静と動、緩急、粗さと緻密さ、甘さと辛辣さ、などなど、いわば相反するような諸象を、通常は楽章ごとに顕著に表出し、変化をつけていくことが多いが、4番はそれらを楽章内で表現することに長けた音楽であると、小生は思うようになった。

リズムの変化が顕著な音楽として、7番を挙げる人が多いが、それは楽章間にその変化点が置かれており、大概の音楽はそうである。

ケーゲルは、楽章内のさまざまな変化点を、すごく重視するから、あらゆるテクニックをしのばせる。

流れる音楽の強調ポイント・・一応アクセントと言っておく、そのアクセントの位置を自在に変化させ、あるタイミングでは後ろに、ある時は前に意識して指示することで、楽章内の変化を、より際立たせる。

そのせいで音楽が非常にヴィヴィッドに聞こえる効果を生むことになった。

そしてリズムの刻み・・・楽譜には恐らく無いであろう箇所のスタッカートを、かなり頻繁に入れていることも、音楽をよりリアルに響かせるための、ケーゲル独自の工夫と見た。

さらに通常は聞こえない音がたくさん聞こえてくる、ふつうは内声部を強めに出すことで、そういう効果を生むことが多いのだが、ケーゲルの場合は強めに出すのではなく、違う音符を弾かせることがかなり頻繁にみられるように小生は聴いた。

平たく言えば、時にしてはスケスケで伽藍としたところに、差し掛かることがあるベートーヴェンの音楽の弱点を補うかのように、新たな音を挿入しているように聞こえるのだ。

たとえば正規の楽譜通りの演奏だと、第2Vnが活躍する場がなく、そのことが音楽自体を薄っぺらくし、結果それまで培ってきた音楽の厚みを失くしてしまうことがある。

このことはベートーヴェンを聴くとき、小生はたまに体験することで、なんでここでオケの音量を急に少なくしてしまうのだろう、そんな疑問を持ったことは少なくない。

おそらくケーゲルはそのことを補完するために、正規の楽譜には存在しない音符を入れ込んで演奏させている・・・・小生にはそのように聞こえる。

さらにケーゲルの・・・多分お得意だと小生は睨んでいるのだが、PPからFFの変化の急峻さ、そしてそれは、いつも聞こえてくる演奏時間軸の、ほんの少しの一歩手前で実施しているようで、この点は音楽を躍動感溢れさすための、ケーゲル独自のそして重要なテクニックであろう。

アゴーギグという言葉は、それらのことを指すのかもしれないし、解釈とはベートーヴェンが表現したかったものを類推し、それを音響に変化させることといえるであろう。

ケーゲルの演奏では、そのことがかなりハッキリとした自己主張を伴って見えてくる。

小生が4番を聴いて、これまでの聴こえ方とは、かなり異なるものが聞こえてきたことに、ケーゲル演奏の、小生にとっての付加価値を、初めて実感することとなった。

ただ1つだけ惜しむらくは、第1楽章後半フルートソロの後、弦楽器が追いかけて、第2主題を奏でるか所。

前打音を入れない処理をしているが、ここは前打音を入れたほうが曲想にあっている。

・・・しかしケーゲルの描く4番の曲想は、常人とはかなり異なるから、前打音なしでやるのも仕方ないのかもしれない。

推測するに、それ以前のパートの別のところでは、前打音を追加して弾かせているから、この部分では前打音なしで行くことにしたのかも知れない。

細かいことにこだわるようだが、この一つの前打音の有無で、音楽の感じが相当異なってくる。
だから音楽は不思議なのだ。
小生はコンヴィチュニー盤で慣れてきたから、前打音賛同者である。

相棒のドレスデンフィルを、小生はケーゲルで初めて接することとなったが、このオケの技量大したものがある。

かの有名なシュターツカペレドレスデンとの関係の有無は、はっきりしないが、SKD相当の実力で、バンベルク交響楽団あたりにも匹敵するし、音の印象は似通っている。

弦の滑らかな表現力は、特筆されるべきことだし、グリッサンドが多い4番においては、弦のうまさが特に引き立っているし、ヴァイオリンの3連符の処理の仕方にはハッとするものがある。

そして4番では金管がフライイング気味に出てしまう箇所が散見されるが、これも勢い余ってのこと。

そういうミスの存在が彷彿とするもの、それは出てくる音楽のように、ケーゲルの指揮ぶりの尋常ならざる姿が、目に浮かぶようだ。

楽譜はブライトコップフを基本に、ダルセーニョをきちんとやっているが、聴こえる音が通常のものとはかなり異なるのは、この時代のベーレンライター版使用はあり得ないから、おそらく楽譜を自分流にかなり改訂したことによるのではないだろうか。

ティンパニーの音の追加補強に見られるように、とくに低音部の増強の跡がうかがえる。

全般的にアクセントが強めで、スタッカートを付加した表現がどこかしこにみられる。
しかしながら、音楽がスムーズに流れるのは、巧みなシンコペーションの力によるところが大きいと小生は見た。

「2人の巨人に挟まれた女神」と、シューマンは4番を例えたらしいが、ケーゲルの4番には「女神」なんかは決して居ない。

ケーゲルの4番、そこ見えるのは、ベートーヴェンに常に内在したであろう、葛藤と苦悩であり、ケーゲルの演奏で歓喜を見ることは決してない。

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by noanoa1970 | 2011-01-19 16:31 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)