チャイ4、コンヴィチュニーの度肝を抜く演奏

「ドイツ系指揮者によるチャイコフスキー」と題したブログ記事を書いたのは、2008年11月のことだった。

読み返してみると、最終文章に「・・・続く」と書いているが、それから今日までその続きらしい記事を書いたことはない。

続けようと思っていたのだが、それを忘れてしまっていたというわけだ。

懐かしきレオポルド・ルートビッヒのチャイコ5番、6番のCD復刻も入手し聞いてはいるが、ドイツ系の指揮者のチャイコフスキーという括りで、まず挙げておかずにはいられない、チョットすごい演奏がある。

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それはコンヴィチュニー1961年3月の、ライブ録音による、チャイコフスキーの4番の交響曲だ。

ちょうど来日の1か月前の録音で、ゲヴァントハウス管ではなく、シュターツカペレ・ベルリン響との演奏である。

オイストラッフとのVn協奏曲は有名だが、チャイコフスキーの交響曲があることはほとんど知られてないようで、ヴォイトブリックが2000年に発売した物の中に収録されていた。

小生はすでに5番の交響曲のLPを所有しており、聴いてきたが、多分世界初出となる4番を聴いて、あまりにもの音楽の圧倒的な凄まじさに仰天してしまった。

チャイコフスキーを、ほかの有名作曲家ほど色々な演奏で聴いているわけではないのだが、そして小生の大ファンであるからというわけではないが、その加点を差し引いても、この演奏は物凄い。

一心不乱の演奏の様子や出てくる音に対し、オケが燃焼しているという表現を使うことがままあるが、この録音を聴くと、まさにそのことがピタリとあてはまる。

来日の1月前そして亡くなる1年前のライブ録音で、コンヴィチュニーがチャイコヅスキーを演奏したこと、そしてこのような凄まじい限りの、卑近な言葉だが、全身全霊を傾けた演奏だ・・と形容しても決して恥ずかしくない。

同じ年1960.10.8、ゲヴァントハウス管とのコンサートでの運命も、渾身の演奏だった。

亡くなる1年未満の時期の演奏が、それまでとは比較にならぬほどの凄まじさや悲壮感に近い何かを感じさせるから、コンヴィチュニーは、やがて来るそんなに遠くない自分の死を予感していたのではないかと、つい思ってしまうほど。

もっともコンウイスキーと揶揄されるように、晩年はほとんどアル中状態だったというから、死の意識は少なからずあったのかもしれない。

文献もないので事実が不明なのだが、そしてコンヴィチュニーのアル中とは、因果関係があるとはいえないが、共産圏におけるさまざまな軋轢が存在したことは多分確かなことだろう。

ショスタコーヴィッチの10番11番を、曲完成直後に演奏したことも、何か怪しい臭いがする。

結果は素晴らしく喜ばしいのだが、あの時期に、決してコンヴィチュニー得意のレパートリーとは言えない、チャイコフスキーを演ったのは、政治的胡散臭さが見え隠れする出来事だったのかもしれない。

それともコンヴィチュニーが、自ら進んでチャイコフスキー演奏に、取り組もうとした結果なのか。
そうあってほしいが、残された録音が4番5番のみと少なすぎる。

今後他のチャイコフスキーの楽曲が発掘されれば、また変わってくるのだろうと思うが。

数年前ソ連所有の音源から、ギレリスとのピアノ協奏曲が世の中に出たから、ひょっとするとロシアには、知られざるコンヴィチュニーの音源が残っているかもしれない。

中でもとりわけ6番の交響曲「悲愴」は、コンヴィチュニーと似合いの曲に思えるし、ゲヴァントハウスのオケトーンとも相性が良いように思われる。

4番、5番と録音し、6番だけ未録音というのは考えにくいので、期待しないで待つことにする。

4番は楽曲そのものが、静と動の変化の激しいそして運命の動機をふんだんに使用した、わかりやすくそして迫力ある曲だ。

また随所に日本人好みの、美しく優しく郷愁にあふれるロシアの民謡を使用しているから、ドイツ音楽中心に育った聞き手には、お涙ちょうだいの甘ったるくて、神経に触ってしまうから、毛嫌いする人もいるが、チャイコフリークは少なからず存在するようだ。

4番の交響曲もご多分に漏れず、これでもかこれでもかとばかり、しつこいところがあるのだが、小生はコンヴィチュニー盤で聴く限り、常に次に出てくる音を待つ…そんな状態であった。

チャイコフスキーの音楽に対する、マイナス評価を払しょくすることが可能な演奏は、6番では散見するが、こと4番となるとそれに該当する演奏、今まで言われたこともないし、聴いたこともなかった。

もしチャイコフスキーの概念を変えた演奏という括りで挙げるとすれば、その筆頭はコンヴィチュニーであると小生は思っている。

ただし、コンヴィチュニーをドイツ的な、そしてドイツ的なチャイコフスキー演奏スタイルかというと、そんなことは決してなく、「爆発する客観性・沈着な主観性」の音楽である…そう言っておきたい。

このような、内包されたチャイコフスキーの音楽的精神性の具現化の1つの方法がそこに存在し、チャイコフスキーの嘆き怒り喜び苦悩葛藤の叫びという、言葉では表しきれない情念の発露を、客観的に表現するときと主観的に表現する、そのタイミングを自在に操れる。

コンヴィチュニーの演奏には、それを強く感じることができるのだ。

当然この楽曲が持つダイナミクスの表現にも、思いのほかの力を注いでおり、4楽章ゲネラルパウゼ・・・(小生昔ははここで音楽が終わるものだと思っていた)の直後のFFFは、凄まじい音で展開され、スピーカーのツイーターが飛びそうなほどである。

モノラル録音だから仕方がないが、この時期にはステレオ録音が可能だったはずだから、この録音がもしステレオで残されたなら、いわゆる名盤とされたくさんの人に聞かれたことだろう。

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by noanoa1970 | 2011-01-16 11:44 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)