疾風怒濤のベト7

縁あって、カイルベルトのベートーヴェン1.2.3.5.6.7番の交響曲を続けて聴くこととなった。
思ってもみなかった素晴らしい演奏に、新たな興奮を覚えることができた。

いずれもが高水準であることは、論を待たないが、しかしあえて言えば7番だけは、小生には少々物足りなかった。
もっともっと迫ってくる変化の躍動が欲しいのだ。

それは多分オケにベルリンフィルを起用したにも拘らず、バンベルクやハンブルグとのベートーヴェン演奏に比べると、珍しいことだが、やや緩慢なところが散見されるからであり、オケと指揮者のコミュニケーションが取れてないのか、オケを十分にドライブしきれない弛緩した演奏だったからである。

カイルベルトの意図が、ハッキリと具現化された演奏か否かが、音楽がヴィヴィッドかそうでないかを分かつ結果につながるのだと思うが、決して7番を否定的演奏とするわけではなく、ハンブルグやバンベルクとの3.5.6番の演奏が、比較すると素晴らしすぎるからでもある。

残念ながら、オケを自在に操るカイルベルトだが、ベルリンフィルとの演奏では、それに徹しきれてないようだ。

したがって、音楽が躓くようなリズム、間延びしたメロディラインに聞こえてしまう。
カイルベルトにしては、弛緩する甘い演奏となってしまった。

それでカイルベルト盤のほかに、すごい演奏がないかを思案すると、真っ先に浮かんだのは、長年の小生の愛聴盤であるカラヤン/ウイーンフィルの古いDECCA録音。

しかしこの演奏は「ビロードの服を着た上流階級紳士」ライクな演奏と、機会あるたびに表して来たように、すごい演奏といえるかというとそうではなく、むしろ快活で洒落た美しい演奏というべきだ。

カルロス・クライバー/ウイーンフィルの演奏は確かにすごく、以前のブログでも褒めたのだが、、しかし今思うに、小生は2楽章第1Vnの奏でる主メロディの3連符処理 の仕方が、どうも気に食わない。

クライバーは、こ洒落たつもりで演っているようだが、ウインナーワルツみたいで、この楽章の曲想にはそぐわないのではないだろうか。
それに、アルコではなく奇をてらったように、ピチカートで終わる2楽章エンディングも好きになれない。

それですごい演奏として、クライバーを聴くのを諦め、さて、これはどうだろうかと、聴き直すことにしたのが、コンヴィチュニー/ゲヴァントハウス管の演奏。
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全集盤ではなく、残されたもう一つの録音、1958年10月30日ライプチッヒ・コングレハレホールにおけるライブ録音のほうである。

この演奏の凄さと言ったら、まさに「疾風怒濤のような」という形容詞が相応しい。

コンヴィチュニーの演奏イメージを、覆してしまうほどのすごい演奏なのだ。
カラヤンが最後のブラームスで、カイルベルトの田園で見せた音魂あふれる渾身の気迫が存在する演奏だ。

開始から終了まで絶えることない、息もつかせない連続の圧倒的な音楽に、鼓動が激しく高まってしまう。

コンヴィチュニーに何が起きたのか、定評がある全集盤を遥かに超えた渾身の演奏で、まるで神がかりでもしたかと思うような凄まじい勢いの演奏だから、無骨、オーソドックス、ドイツ的、正統派、職人、重厚、骨太あるいは鈍重、古武士、古色蒼然などなど、過去からそのような、褒とも貶しにもとれる単眼視的視野の言葉で揶揄されてきた、コンヴィチュニーだが、恣意的に作られた彼の音楽のイメージからは完全に遠いコンヴィチュニーの姿がある。

「躍動するリズム」という視点からは、かなり遠い位置を占めてきたコンヴィチュニーであるが、喩えは適切とは言えないが、モハメッド・アリが自分のボクシングスタイルを表現して、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といったように、この演奏を聴くとその言葉の意味が理解可能だ。

超重量級のボクサーが、フェザー級ボクサーのごとく、軽快に動き回って、たくさんのジャブを常に放ちながら、ここぞという場面で、後からじわじわと効いてくるボディに重いパンチを打ち、ここぞというタイミングで、右フックとアッパーカットなど一発速攻型手法を放っていき、そして結果、観客を興奮の坩堝に誘うがごとくのKO勝利をつかむことになる。

コンヴィチュニーは、変化の激しいこの楽曲を、緻密な計算とアドリブのような瞬間の応用力を持って、見事なる再現に成功した。

コンヴィチュニーはこの演奏では、アスリートのような構えで、音楽と対峙しまた寄り添う姿が見られる。

コンヴィチュニーにしてはかなり珍しく、全集盤とこのライブ盤ではかなりの差があるアップテンポで通しているのが最初の特徴だ。

録音の影響が強いのかもしれないが、「運命」でもそうであったように、ここでも重圧な低音部が通奏低音のような効果を与え、モノラルだが録音状態に恵まれ、弦楽器群の美しい響きと管楽器群のインパクトある表現。

コンヴィチュニーお得意のアラルガンドは、7番では極力抑えて臨んでいる。

ピラミッド型の音響が、鋭いテンポと激しく躍動するリズムを伴って、縦横無尽に暴れまわり駆け回る。

クライバーにおける2楽章問題も、まったく意に介しない、楽譜改変をごく少なくした演奏で、コンヴィチュニーのライブでの特徴のように見受けるが、リピートは省略している。

そして相変わらずビブラートを最小限に抑えているが、このテンポとダイナミズムとめまぐるしく変化する音楽には、優雅なビブラートなど掛けようはずもない。

これは「疾風怒濤」の音楽・・・そう形容しても決してオーヴァーではない。

リズムは、今まで聴いてきたほかの誰の演奏よりも重たくインパクトがあるが、考えてみれば、ベートーヴェンが能天気に軽いはずもない。

ベートーヴェンの作った音を、少しでも長く保持したいという欲求からなのか、シンコペーション気味に入っていく開始が見受けられ、次の音楽への展開を予想させるかのようで、これは面白い試みだ。

コンヴィチュニー、実は彼は同じようなリズムパターンの繰り返しを少しずつ変化させることによって、音楽を生き生きとさせていくのが大得意だ。(もしラヴェルのボレロを演ったら、すごい演奏になることだろう)

こういうところも、今までに染みついてしまった、コンヴィチュニーの音楽イメージからは、ほど遠いことであろう。

ブルックナーやオルフ、レーガーあるいはショスタコーヴィッチなどに力を発揮するのも、そうした背景があると小生は見ている。

聴き終われば、必ず疲労困憊してしまうから、そうやすやすとは聴けないが、今回のように刺激ある演奏を求めるときには、必ず候補の1つに入ってくる演奏である。

昨今ベートーヴェンにおいても、ピリオドアプローチ系の演奏の評価が高いが、モダン楽器によるピリオド演奏の原型は、コンヴィチュニーが、意識しないが1950年代にすでに実施していた。

したがって極論を言えば、表現される音楽の姿は、現代のピリオドアプローチによる音楽とコンヴィチュニーで、あまり相違がない。

つまり現代のピリオド系の演奏家たちは、新しいようだが、実は古いスタイルを踏襲しているにすぎない。
ただ改訂された新しい楽譜を使用することで、何もかもが新しく映ってしまいがちなだけなのだ。

最後に余分なことだが
ピリオドアプローチという形式を、まるで新しい音楽表現法とばかりに、云々することはみっともない。

優れた多くの先人演奏家たちのように、音楽の内容で勝負していただきたい、そう願う次第である。
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by noanoa1970 | 2011-01-14 11:05 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by こぶちゃん at 2011-01-14 23:20 x
実はコンヴィチュニーの全集先日買ってビックリし、友人と温故知新…いや温故知驚という話で盛り上がってました。
詳細は私の日記で書きますが、昨今のピリオド主義~少数精鋭の流行はベートーヴェンの交響曲には似合わず、50年代のクリーヴランドやフィルハーモニア、60年代のゲヴァントハウス、シュターツカペレ・ドレスデンの凄まじさに驚愕しております。
Commented by noanoa1970 at 2011-01-15 06:23
こぶちゃん 様
コンヴィチュニーベト全入手されたようで何よりです。
ようやくベト全がかろうじて評価の対象になってきたようで、オールドファンとしては、嬉しい限りです。
もし何かピンとくるものがおありになれば、SKDとの英雄、バンベルクとの新世界、ベルリン放送響とのブル9、そして今回のベト7ライブ、ゲヴァントハウスとのブラ1のいずれかを聴いていただくと、よりコンヴィチュニーの音楽に肉薄できるのではないかと思います。モノラル録音が多いですが我慢してくだされば、今までのイメージと異なる何かを発見できるかもしれません。