カイルベルトの「田園」が凄い

カラヤンのブラームスを聴いて、他の演奏に触手が伸びることになった。

これは、ほかにもっと良い演奏があるかもしれない、などということではなく、カラヤン以上の演奏が今のところ存在しないことを確認する、そのための行為というわけだ。

意外にもドホナーニ/クリーヴランド管の演奏は、カラヤン盤ほどの情念の発露は無く、どちらかといえば客観的で、正確なリズムとカチっとした精巧無比な演奏であるが、ある意味この曲に対する聴衆の欲求をかなりのレベルで満してくれる一つであることは、間違いないところだ。

長い間評価の高い、ミンシュ/パリ管においても、そのことがいえる。

激しさと静寂さの綾錦、そして4楽章トロンボーンのコラールの宗教性などがその特徴の最たるものではないだろうか。

ティンパニーの鳴らし方だけをとっても、それと見受けられるようだし、4楽章のコラールと、続く低弦の歌わせ方に深みが感じられた。

この演奏でのティンパニーは、きっとかなりのブラ1ファンの支持を獲得することだろう。

ブラームスをほかに4種類ほど聞いた時、パーヴォ・ヤルヴィの「運命」のことを思い出し、それで実に久しぶりのこと、小生好みの「運命」を聴こうと思った。

とりわけ小生は、コンヴィチュニーに代表されるような、演奏スタイルを好んでいる。

それで定評あるゲヴァントハウス管ではなく、モノラル録音であるが、ライプチッヒ放送管との演奏を聴くことにした。

コンヴィチュニーの「運命」、入手可能なものは、現在3種類あって、ほかにはゲヴァントハウス管とのライブ演奏があり、それが一番素晴らしい演奏であることが確認できた。

コンヴィチュニーのテンポが小生には一番合っていて、そして19世紀的な、曲のエンディングでのlargandoが好きである。

他の指揮者がこれをやると陳腐だが、コンヴィチュニーの場合は、嫌みがないと感じるが、多分このことは少年期から聴いて慣らされてきた結果かもしれない。

「運命」でもそれが大きなアクセントとなっていて、思わず背筋がゾクゾクとしてしまった。」

探していたコンヴィチュニーの映像をyoutubeで発見したのでリンクしておく。
伝説の名演といわれる大阪公演の運命かもしれないが、音声画像ともに状態はよくない。
モノラル録音が殆どで、しかも数少ないステレオ録音のベートーヴェン全集で聴こえるオケの配置が、特別で、通常は両翼配置であることがこの映像からも確認できる。



次に聴くことにしたのは、運命とカップリングされている、カイルベルト/ハンブルグ国立管である。前回聴いてからすでに5年以上となるが、その時の印象は、コンヴィチュニーによく似通った指揮ぶりの印象があって、カッチリした構成の地味な演奏スタイルだったから、もっぱらコンヴィチュニー盤かもしくは未蝶盤に触手が伸びた結果、カイルベルト盤にはお世話になることは、ほとんどなかった。

しかし今回改めて聴くと、これがとんでもなく凄い演奏だと分かり、驚くやら嬉しくなるやら。
素晴らしい演奏を発見できたと、満足度の高い至福の時を過
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ごせることとなった。

最近「指輪」で、にわかに話題となったカイルベルトだが、来日してN響を振った時の演奏を評価するオールドファンはいまだに存在するようだ。

小生もTVでベートーヴェンの第9を観た記憶がある。

驚きの一つは、冒頭のジャジャジャジャーンのフェルマータが、記憶をはるかに超えた長さで鳴り響いたことで、この長さは、ブルーノ・ワルターのそれに匹敵するものだ。

数々の特徴があるが、本日は「田園」についてであるから、深くは言及しないが、安定感のある低音パートにささえられ、この時代には珍しく内声部をとてもよく表出し、特に第2Vnとチェロバスの細かい音が強めに再現され、通常聞こえる音響とは一線を画すもの。

だから先日見聞きした、ヤルヴィをはじめとするピリオド系の演奏よりも斬新に聞こえるから不思議で、小生はこういう演奏を強く望んでいたから、ピリオド系の演奏は、なお一層評価し辛くなった。

そういう音楽が魂の塊となって、全楽章を支配し、3楽章から最終楽章へ突き進む場面、弦のピチカートの情熱的な運びと、それを持ってブリッジパッセージに、さらにオケ全員のツッティへと移り進むところのストーリー性の表現は、ほとんどの「運命」演奏を超えている。

結論的に言えば、ベートーヴェンが何を表現し、何をうったえたいかを、演奏家と聴く者が共有できる瞬間の多い稀有な演奏といえるのだ。

これを聞いた今、そのほかの演奏家でもう「運命」を聴く気にはなれず、しばらく放心状態にあったが、「箸休め」的な意味で、カップリングの「田園」を、BGM的に流すことにした。

オケはハンブルグ管からバンベルク響に代わる。
小生はバンベルク交響楽団が響かせる音色が好みで、コンヴィチュニーやヨッフム、ホルスト・シュタインの演奏を好んでいる。

ドイツ中堅のオケとされがちであるが、相当ハイレベルの実力を持っているし、音色も渋さばかりが目立つようであるが、それは大いなる誤解であろう。

そして・・・・
BGM的なつもりで流そうとした田園に、意に反して強く集中せざるを得ないものがあるのを、すぐに発見し、ヴォリュームを強くし聴き入った。

なんという田園だろう。
今まで聴いてき結果、出来上がった総合的イメージが養成されて、今日に至る田園とはまるで異なる田園が、そこに存在していたのだ。

出てくるオケの音響が、ほかのオケと比べまったく斬新だ。
それは運命と同じように、内声部を・・・第2Vn、ビオラ、チェロバスの、普段は塊となって響くだけの、しかも第1Vnが奏でる主メロディの陰に隠れそうになっているそれが、堂々と互角に前に出てくるから、その結果通常とは異なる音響が響くことになり、カイルベルトは意識してそれを演じているのだと思われる。

そういうところに、ベートーヴェンが意図したであろうものを感じることができ、演奏スタイルが古めかしくても、聞こえる音楽は斬新…そんな素晴らしい矛盾を享受できることになる。

いつもターナーの水彩画と表現する、小生の一押しの、ペーター・マーク/パドヴァ・ベネト管とは眞反対の解釈と思われる、「自然崇拝」「自然賛美」的な田園交響曲ではなく、小生には、「やさしい時の自然への感謝」と一方にある「自然への脅威、慄き」といったものの表現が混然一体となる田園に聞こえる。

カイルベルトの音作りは、強めのアクセント、強めのスタッカートという、19世紀的演奏法によるところ特徴であるが、出てくる音楽は決して古くなく逆に斬新だ。

ほんの少ししか掛けないビブラートの弦パートの音色が、ゲヴァントハウス管と類似するのも、小生の好みである。

過去に聴いてきた、(ケーゲル盤が近かったが)いかなる田園も表現しえなかった田園があるのを発見し、この曲に対する概念を極端に変えざるを得なくなってしまった。

ノンレガートとマルカートに支えられた田園は、カイルベルトとコンヴィチュニーぐらいだが、出てくる音は、カイルベルトのほうが内声部がハッキリしているから、聞こえない音が聞こえてきて一瞬楽譜が違うのではないかと錯覚をするほどだ。

さて、最大の田園の聴きどころ4楽章「雷雨、嵐」の場面は、かつて誰もが成し遂げたことのないような劇的な表現、ティンパニーの打音がすごい。

どこからこの迫力が出てくるのか、カイルベルトは、この場面を、現象としての農民の日常における、自然の移ろいを表現するにとどまらず、自然と神が一体となっているかのような、神々しさを表現しようとしたのではないか。

非現実的な話で恐縮だが、小生はレンブラントが描いた「ヤコブの梯子」を想像した。

カイルベルトの「英雄」を今聞いているが、これも前2曲にたがわず、今まで聞こえてこなかった音が聞こえてきて、違う楽曲を聴いているかのように思う瞬間が多々あった。

カップリングされている、序曲フィデリオ、コリオラン、アテネの廃墟、そしてトルコ行進曲、いずれも初聴きであるが、非常に素晴らしい。

今まであまり聴いてこなかったカイルベルト。
これを機会にコレクションを増やそう、そう決心した。
R/シュトラウス、ワーグナー、そして真っ先にブラームスを入手しなくては。


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by noanoa1970 | 2011-01-12 10:45 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)