タンホイザーをF・コンヴィチュニーの魂演で聴き直す

友人がMIXI投稿で大野和士/新国の「トリスタン」の観戦記を書いていたので、昨年末NHKで放映されたドキュメンタリー番組「熱情と静寂のオペラ~指揮者・大野和士の挑戦」をみることにした。

テーマの音楽は、「タンホイザー」及び、世界初演となる、「能」にインスパイヤーされて三島由紀夫が脚色、細川俊夫作曲の「班女」である。

大野は、タンホイザーこそがワーグナーが生涯にわたってテーマとした「女性の愛」の形であるとし、その延長線上から、単に音楽上にとどまらず、全体を見ながら個を捉えていくという、現代の指揮者があまり得意とせず、どちらかと言うとそれを避けて純音楽の世界に徹しようとし、結果意に反し音楽がちじこまる傾向にあるのとは、正反対の態度で臨む姿があった。

大野がタンホイザーで重要視した、エリザベートの変身・・・・タンホイザーの、当時はまだ反社会的行為=反キリスト教的を繰り返したタンホイザーを身を捨ててかばおうとするシーンに、このオペラの、そしてワーグナーが生涯にわたって描きたかったものの本質があるという。

この新たな視点は、ワーグナーのオペラの中で、今までタンホイザーを上位に置いてなかった小生には、「目からうろこ」的なことであった。

それで、長く評価が定まってきたコンヴィチュニー先生の、「タンホイザー」を改めて聴くことにした。

今までと違う何かを発見できるかもしれない、期待は膨らんだ。

しかしここにきて、以前ブログに書いた内容を思い出し、その記事を再度読み返すと、其の記事を書いた2006年12月ではこう述べていた。

ここに其の時の記事をリンクする。

其の時小生は、「エリザベートの自己犠牲」という通念を排し、ワーグナーによる非キリスト教社会の復権、すなわち反キリスト教社会文化的概念の表出と観ることにした。

コンヴィチュニーの音楽家らはその様な気配は当たり前だが、全く見られない。
しかし、小生が思うところの、タンホイザーの意味するものは、今もなお変化してない。

大野さんのタンホイザーへの想いと少し通じるところがありそうだ。

コンヴィチュニー盤のタンホイザーについては、一般的に思われている以上に細かい表情を作っており、コンヴィチュニーに対する基本概念は相当チェンジされなければならないことを認識した。

合唱陣が弱いなどの批判もあるが、そんな弱点を超えた独唱陣により、素晴らしいワーグナーを聴かせてくれる。

最近では増えてきたが、かつては数少なかったタンホイザーの音盤。
中でもコンヴィチュニー盤は、今もなおレベルの高い録音である。

コンヴィチュニーにしては珍しく西ドイツでの録音で、フルキャスト。

教会を使って録音されたせいか、響きも音質もかなり良い。(以前の音響装置のチューニングでは、荒さが目立ってしまったが、現在では良さが引き立つことが多く、時々ハットすることがある)

タンホイザーが発売された当時は、コンヴィチュニーのオペラは、ほかには「オランダ人」ぐらいしかなく、コンヴィチュニーのオペラは批評の対象にも乏しかったが、「トリスタン・・」、「指輪ワルキューレ」(実は全曲が存在)、「マイスタージンガー」が残されており、ようやくコンヴィチュニーのオペラ指揮者としての実力が認識できるようになってきたのは、実に喜ばしいことである。

もう少し長生きしていたらバイロイトでワーグナーを振っていたり、ワーグナーのオペラを、全曲録音したことは想像に難くない。

ないものねだりをしてもいた仕方ないが、後10年生きておれば、まさに「巨匠」と呼ばれる存在になっていたであろう。

せめて残された録音を、リマスターリングして、SACDかハイレベルCDのフォーマットで再販していただければと思う次第。
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by noanoa1970 | 2011-01-06 06:10 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)