夏は死にゆく庭の夢の中で驚き疲れそして微笑する

9月もすでに第1週を過ぎるのに、相変わらず暑い。
もうこれは「残暑」などと呼べるようなものではない。

それでも一昨日あたりから、明け方にはかなり涼しくなって、目が覚め、肌掛けを掛けなおすこともある。

この夏集中して聴いてきた、ブルックナーも、クナッパーツブッシュの1951年1月8日、ベルリンのタイタニアパラストで、ベルリンフィルと録音された8番を、ARCHIPELから発売のリマスター盤で聴いて、コンヴィチュニー盤と双璧をなすことを、改めて認識した。

9月に入って、この月ににちなんだ音楽をと、あれこれ探すも、「セプテンバーソング」が頭に浮かぶばかり。
そしてそれが、「ヴィクター・ヤング」の作品ではなく、なんと「クルト・ヴァイル」であったことを知った。

先程CDの収納棚を物色していると、セルとシュバルツコップのR・シュトラウスの「4つの最後の歌」を見つけたので、何時も聴いている、カラヤンとヤノヴィッツとの表現の違いを確かめるべく、聴いてみることにした。

ちょうど「9月」という曲目もあるし、最近夕方の散歩のときに、見ることができるようになった「夕焼け」・・・「夕映え」は、4つの最後の歌の中でも、小生が最も好んでいる曲である。

小生が生まれるちょうど3年前の1945年、ドイツではベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツ大空襲があって、小生の誕生日と同じ、3月12日には、ウィーン国立歌劇場も、わずか玄関を残すだけですべてが焼失してしまった。

80歳を過ぎたR・シュトラウスは、崩壊してゆくドイツを、どのような感慨を持ってみたのだろうか。

庭が悲しんでいる雨が花の中に冷たく沈む
夏は静かに待ち受ける終末に対して身震いする
       ・
       ・
ゆっくりと夏は気高くとても疲れた目を閉じる

ヘッセの詩に基づいて曲を書いたR・シュトラウスが、9月:「晩夏」を、ドイツの崩壊とダブらせて、イメージしたのかも知れない。

そして前曲「春」は、古き良き時代のドイツへの想いなのだろうか。

「眠りに就くとき」では、何もかもが失われ、無残に残された肉体が、ひたすら休息をもとめる様子らしきものが・・・

さらに、アイヒェンドルフの詩の「夕映えの中で」では、死を前にした今、かつての輝きを一瞬回想したように思える。

シュバルツコップの歌唱は、たしかにいいのだけれど、小生には、あの微妙なビブラート時の、少女の様な唄い回し・・・・可愛いすぎる感がある、それがシュバルツコップの特徴でもあるのだが、それゆえ、どうもこの曲には似合わないようで、おまけにセルの指揮ぶりとのマッチングは、さほど良くないようだ。
さらに、細かいことだが音程に、ややふらつきがあるのも惜しいところだ。

d0063263_13271567.jpg
したがってどうしても、小生は、ヤノヴィッツとカラヤン盤を、この曲の演奏の自分なりのベストとしたく、いまも聴き直しの最中である。

カラヤンのロマン主義的そして表現主義的なバックと、ヤノヴィッツのやや冷めたストレートな表現が相まって、オケのトーンと、特にヤノヴィッツの、高域音声の相性の妙を呈しているようだ。

この曲を初演した、フルトヴェングラーとフラグスタートの演奏も聴いてみたが、音質さえ気にしなければ、相当優れた演奏であろうが、やはり音質が悪すぎて、細かいニュアンスがつたわらない感があったのが残念だ。

[PR]

by noanoa1970 | 2010-09-08 13:04 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)