Feierlich, nicht schnell

ブルックナーの交響曲8番の終楽章には、以上のような表記がある。

これは「荘厳に、しかし、速すぎないように」の意味だ。

小生がこれまで聴いてきた13種類の演奏の中で、ブルックナーの指示を高度なまでに、守っていて、しかも小生の感性にピッタリと合っている演奏は実に少ない。

「荘厳だが速過ぎ」、の演奏が多いのに少々驚いた。
中には華麗に過敏すぎる演奏もある。

「荘厳」とは、比較的ゆったりとした流れの、しかも重圧な・・・宗教曲のような、音楽の向こうに巨大な・・・たとえば神の姿が垣間見れるかのような響きのことであろう。

そしてほんの少々だが、華美な点がある。

つまり、「重々しく、威厳があって気高いこと」との辞書の説明の通り。

これは聴いていて、その音楽演奏からもたらされる音響や、そのほかの音楽的要素によって、何となくわかろうというもの。

しかし問題は「早過ぎないように」という、曖昧かつ抽象的な表現で、其れがゆえに指揮者の解釈は大幅に触れてしまうこととなる。

8番終楽章の出だしの速さは、速いものとそうでないものは、極端なことを言えば、聴感上2倍ほどのスピードの差があるようだ。

ギュンター・ヴァントは思いのほか速く、オイゲン・ヨッフムは比較的遅い。
エリアフ・インバルなぞは速すぎで、曲想を台無しにしてしまった感がぬぐえない。

指揮者によってこれだけの差が出ることを、はたしてブルックナー自身は予想したのだろうか。
速い遅いなどの音楽的速度は、通常メトロノーム記号であらわすが、ネットで楽譜を見たが、その表記はブル8の楽譜にはなさそうだ。

そうなると、「速すぎないように」の「速さ」とは、指揮者の個人的速度概念、そしてそれまでの経験知、其れにブル8演奏上のパースペクティヴな解釈にゆだねられることになる。

だから我々は、そうした違いをも楽しめることになるのだが、しかしそうした中で、自分が一番気に入っているものを発見できる可能性は、あまり多くはない。

あまたの演奏の中から、お気に入りに遭遇できるチャンスは多くはないから、その昔小生もそうであったが、音楽情報雑誌の評論家なるものの批評を頼りにしたものだ。

しかし、プロの評論が絶対的支配を占める中で、徐々にその誤謬に気がつき始め、そうなると、自身の耳で探るのだから、必然的に同曲の保有数が多くなってくる。

そして、好きな曲ほどその数が増えるというわけだ。

不思議なもので・・・過去はレコード媒体による音楽自体の発売数の関係もあって、フィルター(取捨選択)がかかった形で、提供された中から選択をする時代で、その良し悪しはあるにしろ、帰ってよい時代だったのかもしれない。

しかるに昨今、ありとあらゆる音源が復刻され、もちろんその恩恵である、過去には決して聴くことができなかった、しかも素晴らしい演奏に巡り合えることがままあるが、選択肢は過去・・・アナログレコード時代の10倍以上ほどに膨らんでしまった。

幸いソフトの価格は安くなったからまだましであるが、それでも自分好みの演奏を発見することは、物理的経済的の両面に渡り、非常に困難を極めることとなった。

表題の、ブル8の終楽章の速度は、この音楽においての重要なものの1つで、荘厳であることと同様に重要だから、自分好みの・・・・自分がこうあって欲しいといえるような演奏を探すことは容易ではない。

多くのコアなクラシックファンは、自分のお気に入りの演奏家や指揮者をお持ちのことと思う。

それらはそれまで聴いてきたその演奏家の演奏を、自分が気に入ったからだ。

そして長い時間そうした演奏家と接することで、その演奏家の演奏上の特徴あるいは癖を・・・これらを解釈と言ってしまう人もいるほど、其れが分かるがゆえに、ますますその演奏家が好きになり、多くの演奏録音を、その演奏家を中心に収集し、聴くことになるわけだ。

小生の場合、フランツ・コンヴィチュニーという指揮者が其れに当たるが、ブル8でもやはり予想に違わない、実に素晴らしい演奏を聞かせてくれた。

「荘厳に、しかし速過ぎないように」というブルックナーの指示を、極限まで高めた状態で実現していて、しかも曲全体が・・・長大な時間を要し、下手すると途中でダレてしまう演奏も多い中、音楽のすべてが緊張感で包まれている。

こういう音楽を「音魂」のある音楽…小生はそのように呼ぶことにしている。

ブル8の愛好家はかなり多いと見受けるし、そういった人がときどき演奏評らしきものをブログでも書いているのを見かけることがあるが、コンヴィチュニーの音楽を聴いている人が、ごくわずかなのは残念なことだし、もったいなことである。

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by noanoa1970 | 2010-08-12 10:13 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)