浅川マキと五木寛之の対談を読む・・・2

浅川の音楽姿勢にかかわるような、非常に面白い会話があったので、紹介しておこう。

浅川が「自身の音楽的変化を認めない客層が存在して、でもその気持ちはよくわかる」と言ったのに対し、五木は、「歌い手にしても物書きにしても、たえず自分の読者に「さよなら」と、決別の言葉を告げながら、働いていかねばならないような気がする」と言っていること。

対談が始まったのは、浅川のファーストアルバム「浅川マキの世界」が発売開始された後であり、セカンドアルバム「浅川マキⅡ」:1971年9月5日発売直後のころだ。

対談のころ浅川は、ライブでは、このセカンドアルバムからと、同じく71年録音後72年にアルバムとなる「紀伊国屋ホールライブ」とほぼ同じような歌を歌っていたものと思われる。

よって、浅川が話題に取り上げて説明した、観客の声のひとつ、「違うんだな」「だめだな」という理由なき反応が出たことの背景には、ファーストアルバムと、1年時を隔てたそれ以後の歌≒セカンドアルバム、あるいは紀伊国屋ライブとの間での、観客の違和感を物語るものだが、しかし多少の違いはあるものの、基本的な音楽姿勢に、まださしたる変化はないように、小生には思える。

しいて言えば「演歌的志向」が、ややファーストアルバム「浅川マキの世界」に強く出ていたのは事実だが、両盤いすれも山木幸三郎 の編曲の力が強く働いている。

それらのことを整理すると、
浅川は自分の内なる存在である「演歌的要素」を、セカンド以後の歌からしいてなくそうとした傾向があり、観客の一部の人は、そのことを指摘して「違う」「だめ
といい、それを浅川はわかる・・すなわち自分の底辺に存在する「演歌的要素」をしいて変化しようとしていることへの反省と、しかし、そうしなくてはいけない何かがあるという確信が、このあたりの葛藤となって、五木との会話に表現されたように思える。

あまり気がつかない・・・特に80年以降のアルバムからはあまり想像できないが、浅川マキを終始流れている音楽は「演歌」あるいは「怨歌」といってもいいかもしれない、いわば日本人の歌である。

浅川はそういう、自らの「演歌」的ファンダメンタル加減を知っていたからこそ、あらゆるジャンルの音楽と結びつき、シナジーを得ようと努力した。

78年以降の浅川の音楽的変化の様は、このことを物語るものだろう。

フォーク、ポップス、ブルース、ロック、シャンソン、モダンジャズ、そしてフリージャズなどあらゆるジャンルと手を結んできたが、その底には、消そうにも消しきれない、消し去れない「演歌」」があった。

・・・・続く

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by noanoa1970 | 2010-01-26 12:34 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by pororompa at 2010-01-26 18:22
演歌というよりも、私は「歌謡性」という言葉でとらえています。現実の「演歌」の醜さは嫌悪していたのではないでしょうか。それでもやはり強い「歌謡性」を持っていた。そこが魅力だったと思うのです。後の時代の実験的な作品からは、その「歌謡性」があまり感じられなくなっていますね。
Commented by noanoa1970 at 2010-01-26 18:59
pororompaさんどうもです。
>演歌というよりも、私は「歌謡性」という言葉でとらえています。現実の「演歌」の醜さは嫌悪していたのではないでしょうか。
浅川マキの演歌嫌悪があると仮定すると(小生はあると思っていませんが)、五木が言うとり、近親憎悪的な憎悪でしょう。そのことを平たく言えば、やはり底辺には「演歌」ある証拠です。「歌謡性」はもう少し違った意味合いで、浅川に存在しており、それは彼女の作る歌詞そのものにもあるように思います。