浅川マキと五木寛之の対談を読む

いまだに浅川マキに関する話題で恐縮なのだが・・・
drac-obさんから届いた浅川と五木の対談をさっそく読んだ。

「真夜中対談 」文藝春秋 1971/12・25
浅川マキと五木寛之の対談より

<たとえ5人の聴衆のためでも>と出版社側によるタイトルがつけられている。

この中で五木は、対談の4年前と言っているから、おそらく1967年だと思われるが、浅川が金沢の五木の家に、浅川の歌を録音したと思われるレコードを持参してやってきたという、そしてその時五木は、浅川の印象を「少女」とも言っている。

多分この時浅川はまだ生れ故郷の金沢にいて、その初レコードとは1967年4月にビクターレコードから発売された、『東京挽歌 / アーメン・ジロー』のことであろう。

小生は「アーメン・ジロー」 については、ラジオで流されたのを聞いた記憶があるが、東京挽歌の記憶はない。しかしその曲の記憶はすでにない。

この時浅川は25歳となっている、にもかかわらず五木が彼女を見ての印象を「少女」と言ったのは、お世辞だけではないだろう。

多分その時の五木には、浅川の全く洗練などされてない、初で純粋そうな田舎の小さな女性と映ったのだろう。

浅川はずいぶん幻の女・・・黒ずくめの得体のしれない、まるで西洋の魔女でもあるかのような扱いをされてきたが、最近になってようやくハッキリとした彼女の顔が見られるようになって、過去のイメージとは違って、小生には「可愛く」見えた。

これも小生が年をとったのが原因かもしれないが・・・

五木が浅川との対談を望んだのか、それとも出版社の手配によるものかはわからないが、1971年という年は、五木は数々の著作が学生を中心に多くの評価を得て、その名声は凄いものがあった、いわゆる団塊の世代時代の執筆者の、いわば花形的存在、そして浅川はアンダーグラウンドというカウンターカルチャーの象徴的存在として、反体制志向の若者・・・学生に人気が出てきたときで、大学の文化祭ではひっぱりだこの存在でもあった。

両者ともに、団塊の世代の学生たちの一部には、かなり熱狂的なファンが存在していた人であった。
この両者の対談だから、いったい何が飛び出すのか、興味を抱いた人は多かったのではないだろうか。

小生が初めて浅川のライブに接したのも、このころの大学の文化祭のことであった。
しかし五木に関して小生は、熱心な読者ではなく、現在に至っても「サンカ」が背景にある著作をはじめ、ほんの数冊しか読んではいない。

開口一番の五木の浅川への質問・・・「今あなたの一番好きな歌は?」
それに対し、浅川は
今度歌おうと思っている曲だといい、1番の歌詞のすべてとともに、
「少年」を挙げた。

文章では「証明」という歌です。となっていたので、「少年」は、最初は「証明」というタイトルにしようと、浅川が思っていたのかと思ったのだが、どうやらそれは対談が録音されたものを、編集者が拾う過程で、聞き取りにくくて「少年」が「証明」に化けてしまったらしいことに気がついた。

歌詞の内容からして「証明」とはどう考えても、結びつかないし、対談の中で、五木は浅川に「あなたはまるで野坂昭如の文章のようなしゃべり方をする」「句読点が少なくて・・・」と言っていたし、小生が聞いた浅川のしゃべり方から推測しても、「少年」が「証明」に化ける可能性はある。

しかしこの編集者あるいは出版社といってもいいだろう・・は、話の内容を理解せずにタイプ起こしをしてしまった。

ほんの少しでも、浅川マキのとは言わないが、音楽に興味がある人間であれば、決して・・浅川自身が1番の歌詞をすべてそのまま話しているのだから、なおさらのこと、「証明」ではおかしいと気がつかなかったのだろうか。

そして聞こえにくいのなら、確認をなぜしなかったのか。
これについては、多分録音では「証明」と割とハッキリ聞こえてしまったのが原因であろう、そう小生は思うところがある。

たとえば浅川の「紀伊国屋ホールライブ」での語りにも、そのしゃべり方のせいなのか、録音自体はハッキリしているにもかかわらず何を言っているのかわからない個所があるからだ。
北国特有の、口をすぼめたしゃべり方が、その原因なのだろうかとも推測できる。

書きかけ・・続く

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by noanoa1970 | 2010-01-25 12:01 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)