メンゲルベルクの「新世界より」

メンゲルベルクの録音をそう沢山聞いてきたというわけではないが、ドヴォルザークの「新世界より」という曲は、小生が少年時代からズーット好きな曲で、小生には指揮者の特徴がよくわかる曲でもある。

いつものDLサイトで、メンベルベルクがアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したものを発見し早速聞いてみた。

メンゲルベルクの特徴というと、他の指揮者ではまねすることが困難だと思うほどのアゴーギグ、そして時には嫌味に聞こえることもあるが、たいていは心地よいポルタメントの多用だろう。

そのメンベルベルクが、新世界をどのように料理し、小生の味覚を満足させてくれるのか。

小生はドヴォルザークを、ことさら民族主義的な表現で演奏する者を、あまり好まないのだが、メンゲルベルクならば、多分民族主義的なものを排除し、自分流に音楽を作っているのではないかと、そんな仮説と期待を持って聴いたのである。

なんと・・・・

古今東西の演奏の「新世界より」を聴いてきたのだが、こんな「新世界より」は初めてだ。

メンベルベルクのレガートあるいはスラーは、他のどの指揮者にもない独特の・・・前で伸びたり中間で伸びたり、後部で伸びたり、あたかも好き勝手やっているように聞こえる。

その特徴は2楽章のイングリッシュホルンのソロを聴けばすぐに分かろうというもの。

しかしだからと言って音楽が異常ではなく、例えは悪いがあたかも本場のウインナーワルツ・・・(これはほぼ一定のパターンを持っているが)・・・パターンのない自由なリズム処理のウインナーワルツのよう(そんなものはあるわけもないだろうが)に、自由奔放の中に彼なりの筋が1本通っているから、変わり種という言葉は当たっているが、爆演でも奇演でもなく、音楽がじつに美しいのである。

ただ不思議に思うことがあって、それはこの録音が1941年にもかかわらず、使用されている楽譜が「スプラフォン・プラハ版」、すなわち1楽章冒頭のホルンの入りが3拍ではなく2拍のものを採用しているということだ。
(「・ポツポー」という3拍のものと「ポポー」という2拍のものがある。)

ただし「スプラフォン・プラハ版」(古い楽譜を改定したもので原典版ともいわれる)が改定に至ったのは、1960年代のことだといわれているから、1941年では個の採用はないはずである。

にもかかわらず、あたかも「スプラフォン・プラハ版」を使用したかのような演奏をしているということは、メンゲルベルク独自の楽譜研究の成果ではないかと想像できる。

だとすればメンベルベルクの、あの少々奇異に移る演奏スタイルは、綿密な楽譜研究の結果であるともいえる。

これは小生の単なる仮説にすぎないから、もう少し丹念に多くのメンゲルベルクの演奏を聴かないと判断はつきかねるが、それは今後の課題としておきたい。

「ポルタメント」のメンゲルベルクといっても言い過ぎではないがごとく、新世界ヨリにおいても、やはりポルタメントが多用されている。

しかし同様に顕著なポリタメントを使っているシルヴェストリと比較すると、ここでのメンゲルベルクのそれは、嫌味には聞こえなく、むしろ心地よく聞こえてくる。

クーベリックもドヴォルザークではポルタメントを使用していたような気がするが、至極嫌味に聞こえた記憶がある。
クーベリックは、民族主義的という範疇からどうしても抜け出せれない者を根本に持っているようで、彼のポルタメントが嫌味に聞こえたのはそのせいなのかもしれない。
追記
先ほどクーヴェリック1951年録音で確認したところ個の演奏ではポルタメントの使用はなかった。
後のベルリンフィルとの8番での記憶違いだった可能性がある旨書き加えておくことにする。

果たしてどうだったか、もう一度聴きなおしてみることにしよう。

メンゲルベルグリズムあるいはメンベルベルグレガート、メンベルベルグアゴーギグは時として鼻に付くこともあろうが、「新世界より」では、その特徴が成功しているようだ。

メンゲルベルグ節というものがあるとすれば、まさにこの「新世界より」は、そのものという気がする。

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by noanoa1970 | 2009-12-02 11:30 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)