シューマン「森の情景」より

最近知り合いになった「maru」さんが、この音楽のことを記事にしていたのを読み、いずれ書こうと思っていたことを急遽書いてみることにした。

「maru」さんと同じく、クララ・ハスキルの演奏で聞いた。

この曲、小生はタイトルそのまんまに受け取っていたのだが、最近になってそれは大変な誤解、あるいは錯覚であるらしいことが分かった。

「森に人間が進みゆく」「森の中に分け入る」という行為は何を表わすのか。

古来から・・・おそらく産業革命が起こるまで、長いこと常人にとって「森」は、人を拒む神秘の場所であり、危険な場所でもあった。

そしてなにより、非キリスト教社会の古代人が、必要かつ好んで住処にした「森」は、キリスト教社会からは、魔物や魔王、魔女が住むところで、決して森の中で長くとどまってはいけない、すぐにそこから出ないと、災いが降りかかる場所とされた。

オルフは森の中に踏み込み、そこで踊る女性の一群に出会った。
我に返ったオルフは、一目散に馬を走らせ帰るのだが、家の玄関の前で、血まみれになって死んでいるのを発見された・・・

シューベルトの「魔王」も、森の中を通らなかったら、子供の命は救われたのかもしれない。

そのほかにも、森の怖さや悪魔との関連を話題にした民話が多く残されているのは、キリスト教社会の非キリスト教社会の人々に対する、穢怖の想いから出たものであろう。

異教徒差別からの、恐怖と同情そして、過去の長い歴史文化への憧憬は、ロマン主義時代に花開くこととなったのである。

これは小生だけの妄想であるかもしれないが、シューマンの「森の情景」は、そのような雰囲気を持つ音楽である。

9つの短い曲ばかりで構成される曲だが、小生が本日取り上げるのは、4曲目の「呪われた場所」。

「ここにいてよいのだろうか」「ここにこのままいて」・・・と、自問自答するように、カノンによって音楽が構成される。

カノンが終始音楽を支配し、ほんの少しおどろおどろするのは、きっと昔からの言い伝えが脳裏を横切るからなのだろうか。

しかしそれでも、森に対する憧憬の念は、後から後から泉のようにわき出てきて、出口に戻りたいという感情を抑えてしまう。

一体どのような恐怖が、これから身を襲うかもしれないが、それでも森の神秘の魅力に、身を任せてしまおう・・・そんな決断が感じ取れる。

「入口」は、興味と恐怖が入り交じる複雑な気持ちの反映。
そして「待ち伏せる狩人」の下降してゆく音型には、はやる気持ちそのものの反映で、狩人とは自身の反映だ。

「予言の鳥」他については、また日を改めて書くことにしたい。
今は、シューマンに存在するラヴェルの要素とだけ言っておこうか。

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by noanoa1970 | 2009-11-18 16:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(2)

Commented by maru at 2009-11-18 18:59 x
ご説もっとも、と大変感じいりました。
ドイツロマン派の音楽には、この曲のようなデモーニッシュなものが潜んでいることに今更ながら気付き、もう一度勉強しなおさなくちゃと思う今日この頃です。
Commented by noanoa1970 at 2009-11-19 13:08
maruさんこんにちは
>ドイツロマン派の音楽には、この曲のようなデモーニッシュ・・・
そうですね。シューベルトの曲にも、それは当てはまります。
マーラーとシューマンの類似性の考察期待します。
「歌曲」あたりに顕著かもしれません。