マリヤ・ユーディナのベートーヴェン4番の協奏曲

再びマリヤ・ユーディナを聴いた。

なんとベートーヴェンの、しかも大好きな4番の協奏曲を、クルト・ザンデルリンク/レニングラードフィルとの共演で弾いている。

モーツァルトの23番の協奏曲で見せた、厳いがかしこに漂うロマン性は、ベートーヴェンでは、いかなるものか、興味を持って聴くことにした。

4番の協奏曲は、ピアノの序奏が最初に奏でられるスタイルの、ベートーヴェンにしては、毛色の変わった曲でもあり、上昇と下降を繰り返し進む変化に富んだ曲である。

またトレモロが多いことも特徴であろう。

ピアノソナタ8番「悲愴」そして「運命」にあい通ずる所を、小生はかねがね感じている。

さあ、このような感情の起伏激しい曲想を、彼女がいかに弾きこなしているか、またザンデルリンクのバックはいかに・・・

出だしの序奏からして他の演奏とは違ったものを聴かせるので、驚くとともに、モーツザルトでも、そのような傾向は感じられたから、「やはり」と思うところ。

序奏のピアノが上昇する個所は、他の演奏家はゆったりとタメを作ることが多いのだが、彼女は、足早に駆け抜けるのであった。

その後のオケの、少し長めのイントロ・・・ザンデルリンクのスタイルあいまってか、これから始まるドラマの心的起伏が、並大抵のものではないという予感をさせてくれる。

少し逸る彼女のピアノを、ザンデルリンクが抑え気味にコントロールするのがわかるので、彼女のベトーヴェンとザンデルリンクのそれとの、多少のずれがあると思われるが、それも1楽章の中間部で解消し、後の楽章は、そんな心配もなく息の合った音楽を聞かせてくれる。

ザンデルリンクという指揮者は、ブラームスでもブルックナーでもそうなのだが、音楽が緻密で音の隙間がなく、音が密に詰まっている感じがする指揮者である。

ここでもその傾向はよく聞き取れるが、録音状態がもう少し良ければなおさらのことであろう。

ユーディナは、はやる気持ちを制御しながらも、随所に抑えきれない、はやる気持ちがでるのか、多分そのことによるミスタッチも散見されるが、これは完全なテクを誇る彼女には珍しいのではなかろうか。

逆にいえば、それだけ入れ込んだ結果だと言えそうだ。

1楽章のカデンツァ・・・これは今まで聞いたことのないもので、彼女のオリジナルかもしれない。
かなり音楽的起伏が激しいものだが、ベートーヴェン自身の手になるものと比べると、奥深さに欠けるようだ。

しかしあえて定番を採用しなかった、彼女の勇気と何かしらの意図が感じられて、これはこれで決して悪くはない。

多分世間の評価と、小生のそれは違うことは承知の上だが、2楽章は彼女の真骨頂ではないかと、モーツァルトのときにもそう思ったのだが、彼女は緩徐楽章のほうが得意・・というより、それまで見せた前に出る激情スタイルや、ある種のストイックなところを、・・・モーツァルトでもやはり同じような傾向であったが、2楽章では思いのたけのロマン性を放出する。
このピアノは、非常に瞑想的で、小生は深い秋の暗い森をかすかに照らす月・・・それをどうしても思い浮かべてしまう。

終楽章ではまたしても彼女の特徴がみられ、それはオケに続いて出るピアノの主題で、第1音にフェルマータを付けたように、他の誰よりも長く引っ張ることだ。

また最期の音をも、楽譜より長めに引っ張る所も見られるが、これをシンコペ0ションと言っていいのかわからないが、とにかく普通では考えられないというより、今までこのような変化をさせる演奏にお目にかかったことがないのが、正直なところである。

サンソン・フランソワのショパンかと思うがごとくの変化をつけるのだが、それをテンポルバートとか、アゴーギグなどという音楽用語だけでは語ることのできない何かをも感じる。

一心不乱に突き進むが、ときどき・・・北杜夫の小説「幽霊」の言葉を借りるなら・・・「人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。」
「蚕がときどき桑の葉を食べるのをやめ、ふと頭を持ち上げるような・・・」

昔読んだ小説の冒頭を思い出した。

一心不乱の中、ふと我に返る・・・いや現実に帰るようなところが散見される、熱く冷めた演奏である。

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by noanoa1970 | 2009-11-18 12:12 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)