ミトロプーロスの田園
性懲りもなくパブリックドメインからのDLで聴いた。
このサイトは往年の名演奏といわれるものが多く、フルトヴェングラーの録音などは、そのほとんどがそろっているから、彼のファンにはこたえられないだろう。
小生はフルトヴェングラーの熱烈ファンではないから、今まで聴けなかった毛色の変わったものを探すことが多い。
本日は「ミトロプーロス」の田園を発見し勇んで聴いてみた。
ミトロプーロスと言うと、現代音楽を数々紹介した人でもあり、その指揮ぶりは新古典主義的、あるいはノイエザッハリッヒカイトすなわち新即物主義的だといわれる。
はたしてベートーヴェンの「田園」をいかに操っているのか。
これは聴いてみて相当気に入ってしまった。
確かにテンポは早めでトスカニーニをうかがわせるように進むが、しかしところどころに彼なりの大胆な音楽づくりが垣間見える。
1楽章では、ほとんどすべての最初の音にアクセントをダイナミック煮付け、最後にはほんの少々リタルランドを加えているのが特徴だ。
「田舎に着いた時の・・・」という雰囲気からは遠いが、とても快活で澄み渡った青空が一面に広がっているかのようだ。
今まで聴いてきた数々の田園では、聴く事のできなかった「音」が聞こえてくるのが面白い。
2楽章になっても早めのインテンポは保持したままで月すすい、3楽章では彼のこの録音での特徴である一拍目のアクセント強調が顕著だ。
このテンポで嵐の場面に進んだら一体どうなるのか、少々心配なことである。
すると嵐の直前ではいったんテンポを落とし、そして嵐へと進む。
期待外れというか、さもありなんというか、ここも彼独特の変わった解釈だと思うが、彼には「嵐」はない。
少し強い風雨となった・・・そんな感じである。
したがって、嵐が去った後の農民の喜びの箇所に、本当の「喜び」はない。
つまりミトロプーロスは、この曲の交響詩的な希釈から、音楽を開放しているのだと、小生はは思うに至った。
これまで多かったであろう、「ロマン主義的解釈」の超越。
それが多分ミトロプーロスの音楽的信条でもあるのだろうか。
しかし音楽的には、少しも奇異なところや、ギクシャクしたところがなく、むしろ、小生には新鮮で、このような田園も十分その存在価値があるものと思う。
ミトロプーロスのベートーヴェン・・・あまり評価もされないようだが、その実力とはリニアーにつながらず、昨今急に有名になってしまった、カーリーヘアーのイギリス出身の指揮者の、何の斬新性もないベートーヴェンに比べても、ミトロプーロスは数枚上手であることは確かなようである。
ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 「田園」 Op.68
指揮ディミトリ・ミトロプーロス
ミネアポリス管弦楽団 1940年録音
by noanoa1970 | 2009-11-07 11:24 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)