フルトヴェングラーのベト7

管楽器の後に、弦楽器が少し遅れたアインザッツ。
リピート時にもそうだから、これはわざとやったことなのだろうか。

意外にこのことが、帰ってこの曲の演奏スタイルをほぼ決定づけているような気さえする。
出だしのテンポがゆったりしているので、冗長度の高い演奏家と思いきや、音楽が進行するとともに、そのことがとんでもない間違いであることに気がつく。

2楽章で観客の咳ばらいがかなり聞こえるから、この演奏録音がライブであることがハッキリ分かるが、ライブだからそうなのか、もともとこの指揮者がこのような傾向があるのか今はわからない。

もしこのような傾向を多分に持つ指揮者なら、推測はある程度度可能で、多分ドイツで活躍した、演奏史上最も偉大とされる指揮者ではないだろうか。

自由奔放ともいえる・・・トスカニーニなどのザッハリッヒな指揮者とは全く傾向を異にする、しかしその音楽は妙に心をとらえて離さない。

「自由の中の規律」と「規律の中の自由」という言葉があるが、この演奏では規律が楽譜ではなく、楽譜の奥にある何か、そしてそれは演奏者の、「こうであろう」と言う仮説、いや断定に近いかもしれぬが、それほど自信に満ちているから、時々「エーツ」と思うことがあっても、それはすぐに快感に変化する。

アッチェレランド、スホルツァンド、そして絶え間ないアゴーギグが随所にみられ、時には軽めだがポルタメントもかかっている。

「変幻万化」という言葉に象徴される演奏だが、恣意的なところが感じられないのが、この指揮者の凄さだろうか。

短から始まる音は、極短く歯切れ良く、そして長から始まるそれは、思い切り長く伸ばす傾向があるように聞こえる。

その傾向は4楽章に特に顕著で、それまでの3つの楽章が、すべて最終楽章の前奏曲であったかのように、何かに憑かれたようにつき進む。

憑かれたとか神がかり的という言葉があるが、決してそうではなく、音楽のファンダメンタルは決して崩れないし、我を忘れるほど、没頭はしていない。
小生にには、この指揮者が、どこか冷めたところを、常時持ち合わせているように思われる。

音楽に没頭できないなにかがあって、そのことが帰って音楽にダイナミズムをあたえる。

終楽章の異常とも思える展開は、凄まじい嵐か台風のようであるが、それは子供のころに思っていた、どこか怖いものを経験したいという、危険な願望にも似て、この指揮者にとっても、やはり非日常なのだろう。(こんな演奏がそうやすやすと出来るわけはない)

このようなライブは、数ある優秀な演奏史の中でも、多分あまり経験ができるものではないと思われ、そういう意味では、この演奏会に参加した聴衆は、恐らく感動の涙を流さんばかりだっただろう。

オーケストラは、こんな破天荒な指示にピタットついてきており、急激なリズムやアゴーギグにも決して破綻が無く、見事な演奏を終始していて、このオケがとりわけレベルの高いオーケストラであることがわかる。(アインザッツの不一致は多分わざとであろう)

小生は長い間、ベト7はカラヤンウイーンフィルの1950年代のDECCA録音を一番気に入っていたが、本日聴いた演奏もとても素晴らしく、お気に入りに加えることにした。

種明
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これは予想的中。
フルトヴェングラーとベルリンフィルの1943年のライブ録音だった。
この時期はドイツ敗戦が始まる年で、スターリングラードでの敗北、そしてハンブルグ爆撃、ベルリン市民の疎開、北アフリカのドイツ軍降伏など、社会が激しく動いたときだ。
音楽界といえども、決してこの歴史から離れて存在はかなわなかったことだから、フルトヴェングラーの演奏会は、いつもとは違う緊迫感に包まれながらであったのだろう。

そんな情勢の緊迫感を、音楽への情熱に変化させての演奏会だったが、演奏会が終われば、ドイツ敗戦の前奏曲が始まる・・

だから、「一期一会」の演奏会でもあった。

フルトヴェングラーがそのことに気付かなかったわけはない、小生はそう思うのである。
したがってこのライブは、純粋音楽的意味合い以外の緊迫感が、背景に存在し、それが演奏にも表れているように思えてならない。
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by noanoa1970 | 2009-07-28 09:18 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)