ブルーノ・ワルターの田園

耳が慣れてきたSP覆刻CDだが、チョット休憩で、先日ペーターマーク指揮のベートーヴェン「田園」を聴いた。

この演奏は数ある「田園」の中でも、とりわけ小生が好むものだ。

5月あたりの、まだ田植え前の水田のように、そしてそれは田舎の・・・千枚田のように美しい田園である。

「ターナーの水彩画」という喩をかねてからしているが、まさにそのような表現が似合う演奏である。

本日はその「田園」が聞こえてきて、1楽章の第1主題が鳴った時、すぐにこの演奏が相当なものであることを認識させられることになった。

幾分速いテンポで進む演奏は、極わずかにポルタメントをかけながらも、決して甘美とならない。
ところどころレガート気味だが、あくまでも自然体だ。

一瞬だが、ヘルベルト・フォン・カラヤンの60年代のベルリンフィルとの録音を彷彿させた。

全体の印象は、モダンな演奏である・・・そう表現しておくことにする。
モダンとは、19世紀を引きずってっていなく、かといってノイエザッハリッヒな演奏でもない、いうなれば、その両面をごく自然に解釈に取り込んだような演奏のことだ。

ごく自然にというところが、この指揮者の多分真髄ではないかと思うところは、音楽に刺が無いところ、過度な表現をしないところ、しかし歌うところは非常に丁寧にオケを歌わせるところ、このあたりが音楽の進行と絶妙なバランスをとりながら進められるから、この長い交響曲を、一気に聴けてしまう。

この交響曲は、楽章ごとに表題がついていて、ややもすると、楽章ごとの表現に差がつきすぎ、楽章間のバランス・・・つまり曲としての総合的バランスが取れてないことが多いようだ。

つまり、5つの楽章すべてにわたって素晴らしいとされる演奏は、多くはない。

ところが本日聴くことになった「田園」は、そうではなかった。

オーケストラの特に弦楽器群を、まるでウイーンフィルのように、柔らかく滑らかに、ところどころ挿入されるレガートは、水彩画の田園ではなく、パステル画か薄い油絵で絵がかれた・・・初夏の「麦秋」を思わせるような輝きときらめきを持つ。

刈り入れを控えた麦畑のように、黄金色の輝きを持つ、生き生きとした田園風景を思わせる。

希望にあふれた非常に若々しい「田園」だから、この鬱陶しく蒸し暑い雨の日には、もってこいの演奏でもある。

水彩画のターナーではなく、「ジョン・コンスタブル」が描く風景画のような、明晰感ある田園だ。

録音のせいで、管楽器が埋もれててしまっているのは残念だが、これは仕方あるまい。

オーケストラ自体のトーンが明るいのだろう、弦楽器の奏法はウイーンフィルのようだが、しかしドイツのオーケストラにはない音響バランスがあるように聞こえる。

また裏の音をよく出していて、第2バイオリン以下の弦パートが、かなり表面に出てきている。

これは小生好きな演奏の一つになるだろう。
録音自体も、そんなに悪くない。

よく似た演奏としては、大昔コンサートホールソサエティで入手した「ポール・クレツキ」とフランス国立放送局管弦楽団の演奏で、この演奏もやや早めのテンポ、フレージングにメリハリがあって、弦パートが非常に柔らかかったが、まさかクレツキではないだろうし・・・

種明
d0063263_1665592.jpg
d0063263_1671319.jpg


意外や意外・・・なんとワルターとフィラデルフィア管弦楽団の演奏でした。
ワルターの「田園」というと、ウイーンフィルとの録音か、コロムビア交響楽団との演奏が有名で、これらは、ワルターの演奏の真髄とも称せられるもの。

しかしフィラデルフィアとの録音は、今までの・・・というかワルターの固定観念を大きく異なるものであった。

多分この演奏がワルターであると初聴で当てられる人はいないと思われる、そんな非ワルター的な演奏だ。

ワルターの指揮を評してピアニストの内田光子は・・・「内田:美しいものを追うことにね。ワルターには、道ばたの花がきれいだなと言って、そこに時間を費しているうちに全体が見えなくなっちゃうところがあるんです。それが困るんです。そうお思いになりません? 「あなたは初期の、アメリカヘ行く前のワルターの七十八回転レコーディングを聴いていないんだろう?」と言ってくれる人もいます。だけど、私の知っている、アメリカへ渡ってから入れたモーツァルトの六つのシンフォニーとか、マーラーとかは・・・・。マーラー未亡人のアルマが「ブルーノ・ワルターこそうちの夫の跡継ぎだ」と言ったそうですけど、私は、アルマ・マーラーは何もわからなかった人だと思っているんです。それだったら、クレンペラーのほうがマーラーの音楽に近いと思いますね。マーラーでも、ワルターは道草しちゃうんですよ。そこ、ここで小さな花がきれいだと、彼は立ち止まって見ちゃうんです。」・・・以上のように言っている対談があるが、この「田園」を聴けば、発言を訂正しなければならない、そう思うはずだと、小生は強く思う。

専門家でさえ、いや専門家だからこそかもしれないが、固定概念が強いようで、同じ演奏家でもその時代とともに、演奏あるいは表現スタイル、解釈は、大きく変化するのだと言うことを前提にしなければならないのだと思う。

同じ演奏家の演奏した楽曲を、いろいろ聴くのはそのためでもあるわけだ。

ワルターは、そのような固定概念でくくられてきた「巨匠」の代表でもある。

小生はかつてワルターのある演奏を聴いて、ザッハリヒな面もあるのではないかと思った事があったが、年代が変化させたのか、それとも、もともと両面を内包した指揮者であったのかは、依然謎のままである。
[PR]

by noanoa1970 | 2009-07-26 16:22 | 徒然の音楽エッセイ | Comments(0)